■ひとときの休息を
昼下がりの執務室で、花が何やらもの言いたそうに、文若の方をちらりと伺いながら視線を惑わせている。文若の傍らにあって、めったなことでは自分から意見を言わない花だが、それだけにその微かな動きが気になり、文若は竹簡に走らせていた筆をしばし止めた。
「なんだ?」
それとわかるように視を向けると、目を合わせまいとするかのように、ふいと文若から視線を外した。
「花」
声に出して名前を呼ぶと、あからさまにバツの悪そうな色を浮かべ、そのくせそんな顔を見られまいとして、花は俯いた。ほんの一瞬のことだが、花に憂いの色を見たような気がして、文若は眉間に皺を寄せる。その気配を感じてか、ますます花は申し訳なさそうに下を向いてしまった。執務中の文若が公私の区別をきっちり付けていることもあってか、執務室にいる時の花は、文若から与えられた仕事を黙々とこなすのみだ。何事につけても控えめなだけに、普段と違う素振りを見せられれば、気にするなと言う方が無理な話である。
「なにか、気になることでもあるのか?」
再度尋ねると、「なんでもありません。お仕事の手を休ませてしまってごめんなさい」と謝罪の言葉が返って来る始末であった。いくら執務中であるとはいえ、恋仲の娘が物思う姿をそのままに見過ごせるほど文若も冷徹ではない。やれ石頭過ぎる、あんな朴念仁など恋人として論外だろう、と何かにつけて揶揄してくる彼の上司が思っているほど、文若は恋人に対して冷淡ではないのだ。むしろ恋愛感情に疎い花に対して、自身の持つ強い独占欲をいかに押さえ、気取られないようにするか苦慮している毎日である。日々、必要最小限の会話に留め、大量の仕事と向き合っているのは、ともすれば持て余し気味の熱を発散させているのに他ならない。

ふたたび筆を手に取ったものの、どうにも花の様子が気になり、文若はつと席を立った。その様子をみて、花も席を立とうとしたのを手だけで制し、隣の部屋に赴くと、ほどなく茶器を持って戻ってきた。視線を向ければ、花の表情が明るく変わっていくのを見て、文若は軽くうなずいて見せた。そのまま文若が茶器を卓上に置いたところで、花が控えめながら口を開いた。
「あの、文若さん」
「なんだ?」
「その、今日はとてもいい天気ですし、」
遠慮がちな視線が窓の外に向けられている。つられて目線を追えば、目端に新緑に囲まれた東屋が映った。決して近いとは言えないが、気分転換に場所を変えるにはほどよい距離である。先ほどから花が見せていた、もの問いたげな理由の一端が、どうやら東屋でお茶が飲みたかったらしいと察せられ、文若はふたたび茶器を手に取った。
「そうだな。たまには外で茶を飲むのも悪くない」
花のほころんだ笑顔に、文若は苦笑した。執務室以外で茶を飲みたい、たったそれだけのことが言い出せず、叶えば幸せそうな顔をする恋人が愛おしい。同時にそれだけのことをすぐに察せられない自分が面はゆくもあった。自分を律するあまり、最近はふたりきりでお茶を飲む時間すら削っていることに今更ながら気が付いたのである。

広い丞相府の中庭にあって、木々の間にひっそり位置するその東屋は、花のお気に入りの場所のひとつである。今の時期は特に、若葉の間を抜ける爽やかな風が心地よく、気分転換にうってつけの場所だった。木陰の下で手際よくお茶を煎れる文若の姿を花はうっとりと眺めていた。最近では花もそれなりにお茶を煎れる姿が様になり、執務室を訪れる官吏達に接待する機会が増えていたが、ふたりきりで過ごすお茶の時間に限っては、文若が茶を煎れている。文若がお茶を煎れている姿を見ている時の花は、本当に幸せそうで、普段嬉しいときに浮かべる笑顔とは違うやわらかな色合いを目元に湛えていた。本人は無意識なのだろうが、全身で恋していることを主張している視線は、文若の独占欲を多いに満足させるものであった。

ふたりきりのお茶の時間は、若葉が風に揺れる音だけが時を刻み、ゆるやかに過ぎていく。
「その、すまなかったな」
空っぽになった茶器を前に、ぽつりと呟かれた言葉に、花がはっとなったように目を見開き、ふるふると首を振って唇を噛んだ。
「いいえ、文若さんが忙しいのはわかっているのに、私の方こそ、無理を言ってごめんなさい」
恐縮する花に、欲がなさ過ぎるのも考え物だな、と文若は溜息をついた。それが一層、花を恐縮させることになり、文若はどうしたものかと思案にくれた。
「忙しいのは確かだが、もう少し、思うところがあれば言ってくれて構わないのだぞ。控えめなのはお前の美徳でもあるが、私とて好いた娘の望みを叶えるくらいの甲斐性はあるつもりだ」
真顔で言えば、花は耳まで真っ赤に染めてますます身を固くしてしまった。いつも以上に赤面している姿に、文若は逆に花が何か自分に望むことがあるらしいと気が付いた。だが、今の花の状態では聞き出すのは骨が折れそうだ。分不相応なお強請りをする娘ではないが、自分で我が儘だと思っている限りは頑ななくらい口をつぐんでしまうところがある。

なんとなく気まずさが漂ったところへ、運悪く雨まで降り出した。新緑の季節の午後にありがちな恵みの雨だが、それすらも花に、自分の我が儘の代償であるかのような罪悪感を抱かせてしまったらしい。
「まだ仕事がたくさん残っているのに、どうしましょう」
いつ止むともしれぬ雨をこのまま待つとなれば、少なからず執務が滞ってしまうのは明白である。空全体を視界の限り被う雨雲から、短時間で止むものでもなさそうだしと、おろおろ文若を見上げた花に、彼の行動は早かった。さっと上衣を脱ぐと、ぱさりと花に纏わせ、肩を抱くようにして立ち上がらせた。
「走るぞ」
そのまま抱きかかえて走ることもやぶさかではないが、恐縮している花を余計に萎縮させてしまうだけと思い直し、逢えて一緒に走る方を選んだのだった。

執務室まで大した距離ではなかったが、折からの風に煽られ雨が斜めに降ってきたこともあり、文若の上衣をすっぽり被せてもらっていた花はほとんど濡れずにすんだが、文若は髪の毛の先から雫がしたたり落ちている。
「わたしが外でお茶を飲みたいなんてワガママ言ったばかりに…文若さん、こんなに濡れちゃって…本当に、ごめんなさいっ」
涙目で謝り続ける花に、文若は「このくらいたいしたことではない」となだめるものの、あまり効果はなさそうだった。濡れた着物は着替えればすむが、しっとり濡れてしまった髪が乾くまでには少なからず時間がかかるだろう。乾かす間は、束ねた髪を解く必要があるため、執務室で仕事をするには無理がある。
「しばらく執務室を留守にすることになるが、急ぎの用件であれば、隣の部屋にいるから呼びに来てくれて構わない」
花に指示してから、文若は仮眠用に設えた執務室の奥の小部屋に移り、髪をほどいた。

花は、文若から成人男子が日中、ましてや執務時間中に髪を下ろすことはないと聞いていただけに、二重に申し訳なくてひたすら恐縮していた。外でお茶が飲みたかったのは、文若とふたりきりで過ごす時間がほしかったということもあるが、ただでさえ忙しくて、このところ疲れの色が濃い文若に少しでも仕事から離れて休んでほしかったからである。それなのに、却って仕事の邪魔をしてしまったという持念の責に駆られ、なにか自分に出来ることはないかと必死で考えた。
髪を乾かすのを手伝えればいいのだが、ここにはドライヤーもなければ、ドライ用のタオルもない。風を送りながら、せいぜい梳き櫛で髪を梳くくらいしか髪を乾かす手段がないのだ。自分はあまり器用な方ではないが、雨に濡れた弟の頭を拭いてやるくらいのことは何度か経験がある。梳き櫛で髪を梳くのは得意ではないけれど、ゆっくりなら何とかなるだろう。なにより、自分がすれば、少しでもその間文若が休めるのではないか。そこに考えが至ったとき、花は思い切って行動に出た。

「あの、文若さん」
「なんだ?」
「わたしが、髪を梳いちゃ、駄目ですか?」
花は勢いのまま部屋に入り、椅子に座って髪が乾くのを待っている文若の傍らにやってきた。言いながら、既に花の手には、乾いた布と梳き櫛が握りしめられている。
「…そのようなことをお前がする必要はない」
諭すような口調で一旦は断られたものの、花にしては珍しく引き下がらず、そのまま文若の後ろに回って肩先の髪から垂れていた滴を乾いた布で挟み込むようにして吸い取った。
「花、」
「文若さんの髪に触ってはいけませんか」
止めようとすれば、潤んだ瞳に懇願するような声で見上げてくる。めったとない花の強請る姿に、文若は深いため息とともに彼女の好きにさせることにした。
「私の髪など触っても面白くもないだろうに」
眉間に皺を寄せたままに声を掛ければ、
「文若さんの髪は、わたしのよりすべすべして気持ちがいいです」
とうっとりした返事が返ってくる。
花は布で毛先を包み込むようにして水気を取り、手ぐしでほぐしてから、梳き櫛を当てた。花の手が文若の髪をひとふさ取り分けるたびに優しい感触が伝わってくる。強すぎず、ほどよい刺激が文若の頭皮から首筋に与えられ、疲れていた文若に心地よいまどろみをもたらした。

「文若さんの髪って、本当にきれいですよね」
まだいくらか湿り気は含んでいるが、手にとって濡れているという感触はなくなった。指先を分け入れれば、すっと通して襟元に広がっていく。上等の絹糸のように真っ黒な黒髪が花の手に溢れた。その美しさに何度目かのため息を漏らしたあたりで、花は文若の頭が椅子にもたれかかったままになっていることに気がついた。
「文若さん?」
そういえば、先ほどから花が話しかけても返事がなかった。言葉を返さないまでも、軽い相づちくらいはくれる彼にしては、随分とそっけないと思い始めたところだった。
「もしかしなくても、寝ちゃいました?」
文若の胸が規則正しく上下している。疲れの色は濃いものの、その寝顔は穏やかで、安らかな眠りに落ちていることは明らかだった。
「どうしよう…起こした方がいいのか…な」
少しだけきつく髪を梳いてみたが、文若が目覚める気配はなかった。ここ数日は、特に込み入った仕事が入っていたこともあり、疲労の度合いも大きかったに違いない。今のところ急ぎの仕事を抱えて執務室を訪れる官吏もいないようだし、誰か来るまで寝かしておいてあげたいと、花は文若を起こすことを放棄した。

「文若さん」
花は、文若の髪を梳く手を止めると膝をついて、そっと彼の足下に寄り添った。
「いつもお仕事、お疲れ様です」
そのまま文若の膝にもたれかかるように頬を寄せると確かな温もりが伝わってくる。
「でも、たまには今日みたいに、ふたりでお茶が飲みたいです」
軽く頬を押しつけ、くぐもった声で、いつもは言えない願い事をつぶやいた。
「こんな風に、一日中、ふたりで寄り添って過ごせたらいいのになあ」
とくん、とくんと心臓の音だけが、穏やかな時間を刻み続ける。花は束の間に訪れたふたりだけの時間を愛おしむように、文若の膝に寄り添っていた。

2011.1.25
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