■幸運は必ずやってくる
その日も、花は文若が処理した書簡を配って丞相府を回っていた。手元に残る書簡は、あとひとつ。これを配り終えたら休憩に入っていいと言われていたが、その一枚の届け先は、めったに行かない区画にあった。
「この角を曲がったら、…あれれ?」
花の記憶では、その先は一本道の回廊のはずだった。しかし、今、目の前は十字路になっており、その先には複数の建物が続いている。丞相府は、近いうちに銅雀台へ移転することが決まっているため、ここに新たな建物を増築することはありえない。ということは…。
「どこかで、間違えた?」
さすがに、すぐに迷子になったとは思いたくなかった。
「と、とにかく、覚えてるところまで引き返そう」
急がば回れということもある。花はくるりときびすを返し、もときた道を引き返した。自分のなかで、はっきり覚えているのは、紫色のアヤメの咲いていた庭端を通ったということだった。幸いにして、すぐにその場所まで引き返すことはできたが、どうにもしっくりこない。
「こんなところに、水路なんてあったっけ?」
風に揺れている紫の花を見てほっとしたのも束の間、花はどうにも違和感がぬぐえず、その場に立ち止まった。
「やっぱり、ちゃんと覚えるまで歩いておけば良かった」
過日の文若とのやり取りを思い出し、花は書簡をぎゅっと握りしめた。

魏の政治を司る中枢である丞相府は、はっきりいって広かった。文若付きの花が行く場所は限られた範囲とはいえ、それでも元の世界の高校より遙かに広い建物と敷地の中を書簡を配るために移動しなくてはならない。しかも、整然と並んでいた教室と違って、丞相府の造りは迷路と見まごうほどの複雑怪奇な回廊で結ばれており、花にとって、仕事を覚えると同時に迷子にならないよう訪れる予定の部屋の並びを覚えることも必要だった。
なんだかんだと言っても面倒見の良い恋人兼上司は、花のことを気に掛けてくれ、仕事に必要な読み書きをはじめ、丞相府の中も折を見て案内してくれる。彼の期待に応えたくて、花も努力はするけれど、全てが思い通りに行くとは限らない。例えば、文字はお手本があれば自習して覚えられるが、部屋の位置は、なかなか覚えることができなかった。一度、すみやかに書簡を配るため、各部屋の位置を覚えたいので、休憩時間に執務室の外を散歩したいと申し出たら、「ならん」の一言で一蹴された。一応、花なりに「仕事のために必要なんです」と理由を述べたのだが、取りたてて用事もないのに丞相府の中を歩き回るのはよくないことだと、取り付くしまもなかった。
「でも、知らない部屋の方が多いんですよ?」
「お前が配る書簡の届け先は、すでに教えたとおりだ。それ以外の場所へ届けに行く必要はない。よって、他の部屋を覚える必要もない。それとも他に行きたい場所でもあるのか」
「ない、ですけど」
「ならば、尚更必要あるまい」
「…はい」
たたみ掛けるように問われれば、全く以てそのとおりなので、花は諦めるしかなかった。しかし、現実問題として、頻繁に行く部屋は別として、あまり届ける機会のない部屋への道順は、かなりあやふやだった。それなりに目印になると思われるものはあるのだが、どこまで覚えているか怪しいものだ。
そして、花は自分の危惧が現実になったことに、深くため息を吐いた。

花が戻ってこない。
渡した書簡を届け終えたら休憩に入ってよいとは言ったが、それにしても戻ってくるのが遅すぎる。そもそも花は、休憩時間も、自分と一緒に執務室で過ごすことが多い。たまに親しくなった料理人の元で昼食をご馳走になることがあるようだが、それでも食べ終えるとすぐに戻ってる娘なのだ。時間にして半時、長くても一時くらいである。それが一時を過ぎ、さらにもう小半時、いや、半時か。いつもならとっくに次の仕事に掛かっている頃合いなのに花が戻ってこないのだ。
「先ほど渡した中に、丞相へ届ける分は含まれてなかったはずだが」
考えられる理由のひとつに、孟徳の元で足止めを喰らっている事が挙げられるが、孟徳の元へ行けば十中八九、引き留められるのがわかっているので、最近は文若も一緒に行くことにしていた。花を孟徳の元へ行かせるのははなはだ不本意だが、一緒に行って、花の訪問でにやけた上司から決裁をもぎ取ってくるのが業務の一環となっている。
あと考えられるのは。
ふと、執務室を出る前に見せた花の不安そうな色。あの表情に、文若は見覚えがあった。文若の手伝いをする当初、よく花が浮かべていたものだ。問いかけるような目線を向ければ、遠慮がちに届け先の部屋の位置を聞いてきた。仕事に関しては、間違いを指摘すると次からは改められる娘だが、建物の位置関係はどうやら覚えるのが苦手らしく、あまり訪れることないところへ届けるときには、申し訳なさそうに場所を聞いてきたことが幾度かあった。
「もしや…」
渡した書簡の配布先を反芻してみると、あまり訪れることのない刑部宛てのものがあったことを思い出した。前回、花を行かせたのは十日以上前で、その時が初めての訪問だったので案内を兼ねて文若も同行した。文若と歩けるのが嬉しいとはにかんだ反面、複雑な回廊に辺りを見回しながら、何ごとか呟いていた。今思えば、道順を覚えるために目印になるようなものを探していたのだろう。こちらの建物は、花の世界の建物とはかなり造りが異なるらしく、感覚的に覚えられないんです、と新しい場所へ行く度に困惑していた。それでも、自分が気を付けていれば大丈夫だとタカをくくっていた節がある。どうやらそのツケが回ってきたらしいと文若は臍を噬んだ。ただ迷子になっただけならよいが(それも大問題だが)、もしも花に何かがあってからでは取り返しがつかない。文若はすっくと席を立つとそのまま執務室をあとにした。

新緑の映える水辺に紫色の花が揺れている。ところどころ、白や青紫の花も混じって涼やかさを添えているが、書簡を握りしめた花には、花の美しさを感じる余裕などなかった。早く書簡を届けて文若のもとへ戻らなければと気は焦るけれど、届け先どころか、帰る道さえわからなくなってしまったのだ。花が書簡を届ける部屋は、丞相府でも限られた高官しか入れない場所であるが、政の中枢部でもあるから多くの官吏がそれなりに行き交う賑わいのあるところだ。しかし、このあたりの回廊はしんと静まりかえっており、人の気配がまるで感じられないのだ。認めたくはないけれど、完全に迷子になってしまったらしい。先日、文若に連れてきてもらった時は、それほど離れた場所ではなく、回廊の途中にアヤメが咲いていたのを目印に、まさか迷うことはないだろうと思っていたのだが、現実はどうだろう。
「どうしよう。早く戻らないと、文若さんに心配かけちゃう」
書簡を届けたあとは休憩に入ってよいと言われたので、すぐに戻らないからといって文若が花を探しに来ることはないだろうけれど、あまりにも遅くなれば、きっと余計な心配をさせてしまうに違いない。空を流れる雲の様子から、それなりに時間が経ったと思われるだけに、花の気は焦るばかりだ。おまけに、花の不安を写したかのように、だんだん雲の層が厚くなり湿った風が頬を撫でていく。と、ぽつり、ぽつり、と水面がはね、回廊が雨の滴で濡れ始めた。
「あ、雨?」
ガラス張りの学校の廊下と違って、回廊には吹き込んでくる雨を防ぐ物は何もない。どこか雨宿りしようにも、知らない部屋に入ることは憚られるし、なにより人気のない回廊の部屋は概ね鍵が掛かっていて入れないようになっていた。だからといって闇雲に歩き回れば、余計に帰り道がわからなくなってしまう。花は書簡が濡れないよう衣の袖で被い、雨を背にして回廊の隅に佇んでいた。
「文若さん」
雨に濡れた心細さも手伝って、花は恋しい人の名を呟いた。

「花!」
まるで花の呼んだ声に応えるが如く、文若の花を呼ぶ声が聞こえた。
「え?」
まさか、と花が声のする方を振り返ると、回廊の反対側に文若の姿が見えた。
「ぶ、文若さん?」
文若の姿を見つけたとたん、それまでの不安が嘘のように消えていく。花の姿を確認した文若は、そのまままっすぐに雨の回廊を突き進んでやってきた。
「花、大丈夫か」
文若は雨に濡れている花の肩を抱いた。暖かな文若の手の温もりに、ほっとしたのも束の間、花は猛烈な自己嫌悪に苛まされた。
「ごめんなさい」
多忙な文若に余計な手間を掛けさせたという罪悪感から、書簡を握りしめ俯いたまま、まともに文若の顔を見ることができない。
「お前が無事で良かった」
花に掛ける文若の声はどこまでも優しかった。彼が心底花を心配していたことが伺えるだけに、花の罪悪感は増すばかりだ。
「ごめんなさい」
ただひたすらに、謝罪の言葉を口にする花の背を、文若は安心させるように優しく撫でた。
「お前がまだ不慣れだということを忘れて任せっきりにしていた私が悪かった」
予想外の言葉に、花は慌てて首を振った。
「文若さんは悪くないです。一度で覚えられない私が、悪いんです」
花の言葉に、やはり迷っていたのだと文若は確信した。それにしても、わからなければ聞いてくれればよいものを、と自然、溜息が出てしまう。
「あの、呆れましたよね」
「多少はな」
「今日は、アヤメを目印にしていたから、大丈夫だと思ったんです」
俯いたままでは間が持たないと、花はぽつぽつとしゃべり始めた。

花の話を黙って聞いていた文若の眉間に皺が寄っている。
(やっぱり、文若さん、呆れたよね)
おずおずと文若を見上げれば、盛大な溜息が振ってきた。びくり、と身体を硬くさせた花に、文若は、
「まさかと思うが、この花を目印にしたのか?」
と、目の前の回廊の下に咲く紫色の花を指して問うた。
「はい。わかりやすいと思ってアヤメの花を目印にしたんですけど、もしかして、間違って…ますよね」
迷子になった結果から考えて、花が道を間違えたには違いないのだが、文若の皺の寄り方からして、それだけではないらしいと察せられる。
「あの、何がいけなかったんでしょう?」
素直に問えば、
「そもそも、この花はアヤメではない」
と答えが返ってきた。
「え!?」
思いもよらぬ文若の返事に、花は信じられないと声を漏らした。
「信じられないというのは、こちらの台詞だ。お前はアヤメとカキツバタの区別もつかんのか」
「カキツバタ?」
繰り返してから、再び「ええ!?」と驚きの声が花からあがる。
「アヤメじゃないんですか」
再度尋ねた花に、文若は今度こそ呆れたように溜息を吐いた。

先ほどの雨は、どうやら通り雨だったらしく、いつの間にか雨は上がり、雲の間からは晴れ間が見えている。文若は、花を促し、回廊の階段から紫色に揺れているカキツバタの元へ降り立った。
「花びらをよく見てみろ。網目のような線が入っていないだろう」
水辺に咲く花には、どの花びらもつるりとして網目模様はなく、せいぜい白い斑紋があるくらいだ。
「あ。もしかして、網目模様が入っているから、アヤメって言うんですか?」
「そうだ」
文若の肯定は、即ち、花の間違いをも指摘している。
「ついでに言えば、アヤメは乾いた土地に咲くが、カキツバタは水辺に咲くものだ」
つまりは、咲いている場所も違うと言うことだな、と文若は言葉を切った。
「そんなあ」
目印の花をアヤメに覚えたつもりが、花自体を間違えるという失敗に始まり、果ては場所そのものをも覚え間違うという二重のミスに、花はがっくり肩を落とした。
「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句が、ふと脳裏に浮かんだ。優劣を付けがたいというのが本来の意味だったと思うが、似ていて紛らわしい時にも使うんだっけ?
どちらにしても、花が間違えたことによって、文若を心配させたことには違いない。
「心配かけて本当にすみません。あ、この書簡、まだ配ってない!」
謝りながら現実を思い出し、花は、袖の中から最後の一枚を取りだした。どうやら濡れていないので、このまますぐに配っても大丈夫のようだ。

陽光がカキツバタに滴る水滴を弾いてキラキラ反射している。その光は、雨に濡れそぼった花の衣も透き通していた。薄様の上着から、花の身体のラインがはっきり透けて見える。それは見方によっては非常になめまかしく、文若は一瞬見とれたものの、回廊に戻ろうとしていた花を慌てて引き留めた。
「待て、花」
「はい?」
「その書簡をこちらに渡しなさい」
「え、でも」
口ごもった花に、文若はすこしばかり苛ついた声で、もう一度、書簡を渡すよう詰め寄った。
「どちらにしても、刑部の場所をお前は覚えていないのだろう」
「…はい」
渋々、書簡を差し出した花から無言で受け取ると、文若は自身の上着を花に掛けた。濡れたままの花を他人の目に晒すなどとんでもないことである。
「文若さん?」
意味がわかりませんと花が戸惑っていたが、そんなことには構っていられない。
「雨に濡れているだろう」
遠回しに伝えてもたぶんわからないだろうと思いつつも、事実をそのまま指摘するのはさすがに憚られた。
「あの、」
「いいから着ていろ」
「…すみません」
おとなしく文若の上着を羽織った花を連れて、文若は執務室に戻るべく歩き出した。

通り雨とはいえ、少なからず雨に打たれた花の身体は不安と折り重なってかなり冷えていた。それだけに、文若の暖かい手にどれだけホッとしたことか。だから、文若の手が背から離れ、雨上がりの庭先で風に吹かれた時は、とても寒かった。その上、届けるべき書簡を取り上げられた時は、泣きたくなった。しかし、書簡の替わりに返ってきたのは、文若の上着だった。ほんのりと彼の香りと温もりの残る上着は、花の冷え切った身体に暖かさを取り戻した。文若の着慣れて柔らかくなった襟が花の肌に優しく馴染む。

から衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばる来ぬる
たびをしぞ思ふ

文若のあとを歩きながら、花の頭の中は、古典で習った和歌がぐるぐる回っていた。本来の意味は旅の途中でカキツバタの花に寄せて詠んだものだが、着慣れた衣の妻襟と慣れ親しんだ「妻」を掛け合わせたところだけが妙な実感を伴って繰り返される。花はそっと上着の襟元に指を滑らした。
(幸せだなあ)
「なにか言ったか?」
「い、いえ。なんでもありませんっ」
ほんのりと色づいて、しかし、ふるふると首を振る花を、文若はこの上なく愛しく思うのだった。

2011.5.29
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