■銀竹(前編)
  魏は大陸でも比較的四季のはっきりした地方を占めている。だが、その四季の有り様は、日本に居たときとは大きく異なり、良くも悪くも「大陸的」で、花の感覚ではスケールが桁違いに大きかった。
「暑い〜」
短い花の季節が終わったのと入れ替わるように、緑の季節が到来したが、こちらの夏の暑さは日本の比ではなかった。だが、それ以上にやっかいなのが、本格的な夏の前に訪れる雨の季節だ。日本にも梅雨があったが、こちらのそれは、そんな生やさしいものではない。熱帯地方で言うところの雨季に近いと花は思っている。当然湿度も高く、重ね着的なこちらの衣装は、更に暑さに拍車を掛けていた。
「あー、クーラーが欲しい。ううん、せめて扇風機でもいい」
言ってもしがないこととは思いつつ、扇でパタパタと扇いで恨めしげに土砂降りの空を仰いだ。

  丞相府の銅雀台への移転を機に、花は文若と婚儀を挙げ、正式に彼の妻となった。それに伴い、花の居住地も城から文若の屋敷へと移ったが、その新婚生活は、花の夢見ていたものとはかなり異なっていた。第一に、婚儀を挙げて以降、文若の仕事が格段に増えた。通常の業務に加えて政治の中枢機能の移転という大事業を平行して行ったのだから、当然と言えば当然のことではあるが、それにしても文若は働き過ぎだと花は思う。
  今日だって本当なら文若とふたり、休みを取って城外の市へ出かける予定だったのに、この雨のおかげで土砂崩れや川の氾濫が相次ぎ、文若は出仕を余儀なくされた。予期せぬ自然災害が相手であり、その対応で文若が出仕するのは官吏の長として仕方のないことだと納得はしている。それなら自分も出仕すると申し出れば、「お前は休め」と一蹴された。花にできることは限られており、要領を得ない者が出ても返って邪魔になるだけだと言われればぐうの音も出ない。こういうところは容赦ないが、このところ残業続きで文若が花の身体を心配しているが故のことだとわかるので、それ以上食い下がることはせず、おとなしく休みを取らせてもらった。が、この雨と湿度の高さには、何もする気になれず、扇で扇ぎながら空を睨んでいた。
  ガラスのないこちらの窓は、どうかすると雨が吹き込んでくるが、雨の降り込んできそうなあたりは物を置かないよう空けてある。濡れた床をいちいち拭いていたのではキリがないので、ある程度濡れるのは容認した。

それにしても。
「まさかこっちに団扇がないなんて」
はあ、と花は溜息を吐いた。今、花が扇いでいるのは日本で使われている団扇や扇子とは、かなり異なる扇である。床の間などに飾ってある、いわゆる、飾り扇とでも言おうか、薄い竹を組み合わせて扇形を形成し美しい絵が描いてある高級な芸術品だ。かつて気軽に使っていた団扇に比べると格段に使いにくいというか、風が起きない。よって、扇いでいる割りにはちっとも涼しくならないのだ。あちらでは、梅雨の時期に入るか入らないかの頃から、いろいろな宣伝の入った団扇がお店で配られ、それこそひとシーズン限りの使い捨てだったが、紙が貴重品のこちらでは、そもそも使い勝手の良い団扇自体が存在していないのである。

  やがて、花の扇を扇ぐ手が止まった。使い勝手が悪くその上効率の悪い扇を長時間、使うには無理がある。暑いのも辛いが、先に手首の方がくたびれてしまった。
「うう、手が怠い」
扇いでいたときとは反対方向に手首を回した。
「風がないのも暑いけど、この重ね着もどうにかならないのかな」
こちらに残ると決めてから、花の衣装は全て文若が揃えてくれたものだ。生地も仕立ても申し分ないけれど、重ねて着ると、薄くてもかなり暑く感じてしまう。かつては、夏だとTシャツ一枚で過ごすのが当たり前だったのだから、その差はかなり大きいと思う。かといって、今更制服を着るというのも抵抗があった。例え着れたとしても、長袖ブラウスにカーディガンでは、今の重ね着スタイルと大して変わりがないではないのか。
「一枚で着られる衣装ってこっちにはないんだっけ」
薄絹仕立ての上着は丈が長く、一応それだけでも様にはなるけれど、光に当たれば透けて見えるので論外だ。
「襦袢だけってわけには…いかないよね」
さすがに昼間から寝間着を着るというのも気が引ける。
「せめてもうちょっと裾が短かったらなあ」
人がいないことを確認し、そっと裾を絡げてふくらはぎを出せば、少しだけ涼しくなったように感じるが、それも一時のことだ。
「やっぱり無理よね。そういえば、あっちでも昔の人は夏も着物だったんだっけ」
そう考えれば、今、自分が着ているのと大して変わらない程度に重ね着をしていたはずだ。
「でも、待って、確か…浴衣!」
元は寝間着だったらしいが、夏祭りなどの夕暮れ時に一枚で着ていた着物があったことを思い出した。涼しさを考えて、生地も木綿か麻で、着方も半帯でかなり簡略されていた。残念ながら浴衣の着付けまでは知らないけれど、旅館で用意されている一式のように細くて短い紐を使うならば、なんとかなりそうなシロモノだ。けれども、浴衣に出来そうな衣装が花にはなかった。文若が揃えてくれた衣装は、どれも上質な絹ばかりで、一枚で着るには全く以て適さない。

「文若さんのバカ」
八つ当たりだとわかってはいるが、つい文句のひとつも言いたくなる。
「自分のは木綿で作ったのもある癖に」
言ってしまってから、花は、いいことを思いついた。別に自分の衣装でなくても構わないのだ。文若の古着で木綿のものがあれば、十分事足りる。質素倹約を旨としている文若ではあるが、仕事用には季節ごとに作る必要があり、着なくなった衣装もそれなりに上っていることを思い出した。
「引っ越すときに確か一緒に持って来たって家令さんが言ってたはず。着なくなったのをちょっとだけ利用しちゃ、ダメかな」
思いつくと即行動にうつしてしまうのが、現代っ子の花らしいところだ。一人で過ごす雨の休日に、いい加減うんざりしていたこともあり、花は絡げた裾を元通りに整えると、文若の衣装を整えるという口実で、衣装が収めてある行李を見せてもらうことにした。

  さすがに官吏生活の長い文若だけあって、行李の数も半端ではなかった。その中でも、花は、奥の方にあるあまり衣装を出し入れした形跡のない行李に目星を付けて片っ端から中を覗いてみた。ほとんどは絹仕立ての上等なものだが、数は少ないながらも花の欲しかった木綿の袍服も幾らか入っていた。
「模様の好みはおいといて、これとか浴衣にありそうな感じ」
濃紺の二色を組み合わせた襷(たすき)模様の着物は、地味ながらも着慣れた感じで木綿のごつごつした手触りはなかった。花のイメージする浴衣は、濃い下地で花などの華やかな意匠が描かれているものだが、この際贅沢は言っていられない。その衣装は長い間着ることはなかっただろうけれど、季節ごとの手入れだけは怠りなくされているようで、すぐに着てもなんら問題のない保管状態であった。替えの衣装が欲しくなったら、その時また来ることにして、取り敢えず手に取った1点だけを持って花は自室に戻った。

  家令には、疲れたので休むと伝えておいたので、当分は誰も花の部屋に来ないはずである。それでも、一応、念には念をということで、部屋には確かに自分一人であることを何度も確認した。それから部屋の隅に移動して、おもむろに今着ている物を脱ぎ、文若の木綿の袍服を纏ってみた。
「やっぱり、ぶかぶかだ」
ふふっと笑みがこぼれる。漫画の世界で、彼氏のシャツを一枚だけ羽織っている彼女の図というのがあったが、それに近いのだと思う。文若とは婚儀後、幾度となく夜を過ごしているが、翌朝に花が彼の衣装を纏ったことはなかった。情事のあと彼に抱かれたまま寝てしまうことはあっても、翌日は自分の衣装をそれぞれ着るからだ。間違っても相手の衣装を纏うなんてことは…。
「絶対無理」
悲しいけれど、断言できてしまう。と、それは置いといて。
今は、このやたら長い裾を着物を着る要領でうまくおはしょりを作るところまで持って行けるか、だ。
「背中は大丈夫。前もこのくらいで揃えて、この紐で腰の位置で縛って、うん、解けない」
腰紐から上がかなり余っているが、おはしょりがたっぷりあると思えばなんとかなりそうである。腰のあたりが二重になって少し暑いけれど、上着を重ねていない分、やはり涼しく感じられる。
「あとは、帯だけど」
そこで花の手が一旦止まった。自慢ではないが、正式な着物の帯の結び方は全く知らない。帯だけこちらの衣装の要領で結ぶのもアリかとは思うが、それでは結局締め付けるので同じ事だ。
「帯じゃなくて帯び代わりになるものかあ」
ふと、上着の肩衣に手が触れた。その柔らかな感触は、子供の頃、鹿の子のような薄様で浴衣にリボン結びをしてもらったことを思い出させてくれた。試しにくるりと腰に回してリボン結びにしてみると、それなりに様になった(と思う)。木綿の袍服一枚に薄物の肩衣を帯代わりにしたスタイルは、思っていた以上に楽で涼しかった。着るものが2、3枚違っただけでこんなにも身軽になれるなんて、予想外の効果に花の顔は自然とほころんでしまう。雨の音は相変わらず豪快だけれど、憂鬱な気分からは脱却できたようである。

「これで団扇があれば、完璧よね」
人間の欲とは際限のない物で、ひとつ叶うと次から次へと元の世界における夏の風物詩が浮かんでくる。
「浴衣といったら、夏祭りに花火大会でしょ。こっちに夏祭りってあったっけ?」
しかし、例え夏祭りがあったとしても、多忙を極める文若と祭に出かける時間はたぶん取れないだろうと思う。花火の方は、そもそもこの時代にあるのかすら怪しい。
「花火大会は…爆竹とは違うよね」
どちらにしても「文若とお出かけ」が絡む物は、まず無理だと諦める。
それなら、家でもできそうなことになるわけだが、浴衣を着て家で過ごすといえば、ひとつしかない。
「湯上がりの夕涼み」
夕食後、縁側でふたりそろって団扇で扇ぎながらゆっくり過ごすというのが思い浮かんだが、激しい雨の夜にそれは論外だと思う。暑いからと言って窓に寄りすぎると、あっという間に降り込んでくる雨に濡れてしまうのが現実だ。
「文若さんの馬鹿」
所詮は無いものねだりの我が儘だとわかっているが、ひとりで過ごす休日は寂しくて、つい口に出てしまう。やっと浮上した気分は、降り続く激しい雨に流されてしまったようだ。

  花にもわかってはいるのだ。憂鬱の原因が、文若が一緒に休んでくれなかったことではなく、自分だけ休まされて一緒に居られなかったことにあるということを。そしてもっと突き詰めれば、文若の補佐官とはいえ、それに値するだけの能力が自分には備わっていないということだ。読み書きすら覚束なかった当初に比べれば、格段の進歩が伺えると言ってくれるけれど、精鋭揃いの丞相府の官吏として役不足なことは自分が一番よく知っている。そして、更に。
「ちゃんと奥さん、できてるかな」
文若は何も言わないし、家令をはじめとする家人たちも花によくしてくれるけれど。ただの女子高生で未熟な自分が、官僚の妻として、また格式のある家の嫁として采配を振るえているのか等々、気になり出すと奈落の底へ転がり落ちていくのは早かった。

  沈んだ気持ちで雨音を聞いていると、寂しさが募って、ただ文若が恋しくて、花は三度呟いた。
「文若さんの莫迦」
声が聞きたい。
姿が見たい。
一緒に居たい。
「…はな?」
そこに居ないはずの人の声がして、「あ、ついに幻聴まで聞こえてきちゃった」と花はため息を吐いた。しかし、どうせ幻聴ならこの際、ずっと気に掛かっていたことを聞いてみようか。
「私、ちゃんと、できてますか?文若さんの邪魔になってませんか」
花の声は、降りしきる雨の音にも掻き消えることなく、声の主のもとへ届けられた。
「お前はちゃんとやっている。そもそも前にも言ったと思うが、わたしが自分の邪魔になるような者を側に置くわけがなかろう」
「そう、だといいんです、け、」
反射的に応えた言葉は最後まで紡がれることなく、花は声のした方へ振り返るなり絶句した。
「文若さん!」
花の瞳が最大限に見開かれ、驚きと恥ずかしさとで、全身が瞬時に赤く染まっていく。逃げ出したい騒動に駆られたが、身体の方は金縛りでもあったかのように硬直して文若を直視したまま、花の時間が止まった。

(後編へ)

2011.6.25
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