■銀竹(後編)
  花が我に返ったとき、文若はすぐ側まで来ており、職場ではすっかりお馴染みになってしまった眉間にここぞとばかりの皺を寄せて花を見つめていた。
「身体の具合が悪いと聞いたが、一体何をしているのだ」
問われた意味がすぐにわからなくて、花はしばし答えに詰まった。
「それに、なぜわたしの袍服など着ている」
文若の二度目の問いに、花は今の自分の格好を思い出して、顔に血がのぼった。よりによって、一番見られたくない人に見られてしまった。焦りまくっている花にうまい言い訳が思いつくはずもなく、
「暑くて、つい、」
と本音がぽろりと口から滑リ出た。
  当然のことながら、ますます文若の眉間の皺が深くなる。以前の文若であれば、ここで間髪入れずに「理解しがたい」と返すところだが、これまでに数々の理解しがたい行動に付き合わされてきたおかげで、いくらか耐性がついていたし、花の行動の裏には、それこそ文若には理解できない花の世界の習慣が絡んでいることがわかってきたので、むしろそちらの方が気になった。
  花の心を疑うわけではないが、絶ちがたい故郷への想いを抱えて一人で泣いているのではないか?羞恥のあまり萎縮して俯いたままの花を前に、文若は考えあぐねていた。こういうとき、どう言葉を掛けたらいいのか、どうしたら花の気持ちを楽にしてやれるのか、己の不器用さが恨めしい。また、花は花で、古着とはいえ、文若の衣装を勝手に持ち出して着ている自分をどう説明しようか、その前に謝るのが先か、まとまらない考えに混乱していた。

「あの、文若さん」
取り敢えず、言い訳より謝るのが先だとの結論に達し、おそるおそる顔を上げてみれば、眉間の皺はそのままに、いくらか表情の和らいだ文若が自分をみている。
「ごめんなさい」
自分でも情けないほどに声が震えた。
「すぐ、脱ぎます」
わたわたと腰に結んだ薄衣に手をやれば、リボンの結び目に文若の手が重なった。
「変わった着付けをしているが、それは、お前の国の習慣なのか」
できれば触れて欲しくなかったところをズバリ聞かれて、文若の触れた花の手がピクリと反応した。言葉にしなくとも、その反応で答えを返したようなものだ。
「制服、だったか。お前が以前着ていたものとは、ずいぶんと違うようだが」
淡々と告げられる言葉は、花に納得のいく説明を求めている。こうなると完全に文若のペースで、嘘や隠し事が壊滅的に下手な花は、事実を話すまで解放して貰えない。
「あ、あんまり暑いので、一枚で着れるものがないかなって思ってたら、浴衣を思い出して」
「浴衣?」
「私の国に昔からある、木綿の、夕涼み用の着物です」
木綿というところを一応、強調して言ってみた。
「木綿の着物か」
「そ、そうなんです!私の衣装の中にはなくって、そういえば、文若さんの古着の中にはあったなって思い出して」
ここまで話したからには、もうやけくそだ。花は開き直ってあとを続けた。
「家令さんにお願いして行李からそれっぽいのを持ち出して着てみたら、意外と涼しくて。もちろん、文若さんが選んでくれた薄絹の綺麗な衣装や豪華な帯もステキですけど、でも、こっちの方が楽っていうか」
そこで少しだけ花の言葉が切れる。そして、ほんのり上気した表情で文若を仰ぎ見た。
「だ、旦那さまと浴衣で夕涼みってこんな感じかなあって」
旦那様の一言がすんなり言えなかったのは、照れの部分が大きいのだろう。人妻となってからも、この手の話題になると花に恥じらいがあるのはいつものことだ。それがまたいじらしくも可愛らしくあるのだが。

  コホン、と文若がひとつ咳払いした。心なしか、目元が優しい。取り敢えず事実を話し終えたという安堵感と、それまでとは異なりやわらかくなった空気に後押しされて、花は先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「どうして文若さんがここにいるんですか」
緊急事態ゆえに休日を返上して出仕したくらいだから、当然残業もあって帰宅するのはいつも並に遅いと思っていた。多少は花もぼんやりした時間を過ごしてしまったが、まだ日は高い。降り止まぬ雨のせいで決して明るくはないけれど、どちらにしても帰ってくるのが早すぎる。花のあどけない質問は、だが、確実に文若をうろたえさせた。ゲームで言えば、形勢逆転とでもいったところだろうか。
「仕事は、指示さえ出しておけば、私が居なくても引き継いで采配できる官吏くらいいる」
それはそうなのだが、それでも完了の報告を受けるまでが自分の仕事だと言って、残業しているのがいつもの文若だ。言っていることと普段の彼の行動とのギャップに、思わず花が小首を傾げると、文若自身にも自覚があるのだろう。ふい、と視線が泳いだ。
「家令から、お前の具合が悪いと連絡があったのだ」
「え?」
  今度は花が狼狽する番だった。文若の古着を着るところを誰にも見られたくなくて、無難な理由に疲れているから休むと家令に言ったのが、そのまま文若に伝わったらしい。確かにこの雨と暑さに疲れ気味ではあるけれど、まさか文若が仕事を切り上げて帰ってくるとは思わなかったのだ。
「この暑さで、ちょっと疲れてるかも」
ぽつりとそんな言葉が出てしまったが、次の瞬間、あわてて言い直す。
「でも、そのために今日、私だけ、お休みをいただいたわけですし」
言ってしまってから、文若は一緒に休んでくれなかったことに対する不満がにじみ出ていたと気が付いたが、時既に遅し。もともと憂鬱だったところへ予想外の事が続き、トドメは自分の失言で、花の気分は最悪だった。穴があったら入りたい、とはこういうことを言うのだろうか。しかし、ここは自分の部屋で他に行くところもないわけで。
「…って、ください」
「花?」
「着替えるので、部屋から、出てって下さい」
羞恥と自己嫌悪と混乱と、花は自分の気持ちの整理が付かなくて、八つ当たりだとわかっていても言葉を止めることはできなかった。

  花は普段めったと我が儘を言わない娘で、想いを交わしてからも、また婚儀を挙げてからも己を主張することがほとんどなかった。過去を思い返してみれば、花が強く主張したのは必ず文若に迷いがあって立ち止まっているのを正しい道へと後押ししてくれた時に限られる。つまりは、文若のための主張であって、彼女自身の望みがそこにあったとしても我が儘からきたものではないのだ。だが、今は違う。多分に一緒に休みを取れなかった自分への不満も含まれているだろうが、花の欲しいものがはっきりとした形として表れている。
「木綿の、浴衣か」
文若を部屋から追い出さんばかりの剣幕でいる花に、彼の呟きは確かな波紋となって届いた。
「この暑さでは、確かに絹より木綿の方が涼しいだろうな」
自棄になっている花とは対照的に、文若の口調は極めて軽いものだった。
「文若、さん?」
「その上、女性の衣装は、重ねて色目を出すのだから、この時期には辛かろう」
花の動きが止まり、文若をきょとんと見上げている。
「まあ、以前の制服は、さすがにいただけんが、浴衣といったか。今、お前が着ているのと似たようなものなのか」
「合わせ方とか、ちょっと幅が広いですけど、そんなには変わらないと思います。長さも、おはしょりがあるから、こんな感じだと思いますし」
文若に問われるままに答えているが、花の答えはどこかあやふやで、自信がなさそうである。
「着ていながら、わからんのか」
「だって、浴衣なんてめったに着ることなかったですし。かなは彼氏と浴衣でデートすることもあるって言ってましたけど、私には恋人とかいなかったから」
「恋人がいないと着ないのか?先ほどの、夕…とかなんとか」
「夕涼み、です。だって、夕方から夜ですよ?」
花の無邪気な答えに、文若の方が赤面してしまった。
  夕涼みというからには、花の言葉どおり、当然、夕方から夜にかけてのことだろうし、想いを交わした者と一枚だけの簡単な着物で黄昏時を過ごすというのは、精神衛生上、非常によろしくない。正直なところを言えば、今だって、自分の袍服を一枚着て、肩衣ですぐほどけるように結んだだけの姿は、己の理性を試されているとしか思えないくらいなのだ。だが、花にそういうつもりのないことは、明らかだった。
「でも、これだけ雨が降ってたら、夕涼みってすることないですよね。風に当たると言っても雨が吹き込んで来ちゃいますし、もちろん、夜空を眺めることなんて無理ですし。せいぜい膝枕で…」
ようやく和らいできたと思った花の表情が、また固まった。しかし、それは先ほどのように不機嫌さから来るものではなく、羞恥からきたものであることを文若は見逃さなかった。彼の予想は正しく、花は文若から逃れるように視線を不自然に逸らしている。
「雨の日でも、浴衣を着ることがあるようだな」
さりげなく話題を蒸し返すと、案の定、花は真っ赤になって言い返してきた。
「だって、夕涼みですから!あくまで、夕方から夜に掛けて、涼しく過ごすための着物なんです!」
羞恥に染まり必死で言い繕っている花をみている文若はどこか楽しそうな様子である。勢い余って肩で息をしている花に、文若は、ここぞとばかりに提案した。
「だが、自宅でくつろぐとはいえ、私の古着というのはいただけん。そもそも女のお前に私の衣装は大きすぎるだろう。暑さを凌ぐのに木綿の服が涼しくてよいというのであれば、好みの意匠で誂えさせよう」
「そんな、もったいないです!」
間髪入れずに返ってきたのは予想通りの反応だった。
「お前の体調管理も仕事のうちだ。木綿の衣装で暑さが凌げるというのなら安いものだ。お前の体調が優れぬと丞相に知られてみろ。見舞いと称して連日我が家へ通って来るぞ。当然、お前が全快するまで政務が滞る」
「はい?」
なんだか、今、聞いてはいけないことを聞いたような気がする。呆気にとられた花が文若を見返すと、文若は苦虫を噛み潰したような、どこかやりきれない表情をしていた。
「妻の心配をするのは、私だけで十分だというのに」
上の空で呟かれた言葉に、花は甘酸っぱい恥ずかしさと嬉しさで、自然と頬が緩んでくる。無意識に両手が火照った頬を押さえ、潤んだ瞳で文若に微笑んだ。
「文若さんは、ずるいです」
文句を言いながらも花の表情は明るい。
「そんなことを言われたら、雨の日でも文若さんと夕涼みしたくなるじゃないですか」
「夫が妻に衣装を贈るなど、当たり前のことだぞ」
「それでも、です」
  ほんのりと頬を染めたまま、花はきょろきょろと部屋を見渡した。それまで薄暗い部屋の隅にいたのだが、窓辺に近い明るい場所へと文若を誘って、その場に座り込んだ。腑に落ちない様子ながらも、文若は花に付き合い、隣に座る。
「えっと、ですね」
勢いで文若を誘ったものの、これからすることをどう説明したらいいのか、少しだけ悩んだが、案ずるより産むが易し、と開き直り、文若の袖をひっぱって、身体が傾いたのを機に頭を自分の膝の上に乗せた。
「これが、膝枕です」
とっさのことに文若の思考が追いつかず、花の為すままに彼女の膝に頭を押しつけられ、呆気にとられたところへ優しい吐息が耳元に触れた。
「雨だったら、妻の膝枕で、旦那さまの、耳かきをするんです」
木綿一枚の布越しから、花のぬくもりが伝わってくる。女性特有のやわらかな感触に、今度は文若が硬直する番だった。
「耳は大切なところだから。その大切なところを任せてもらえるのって、奥さんの特権というか」
花の細い指先が文若の耳たぶをなぞっている。優しく愛おしむかのようなその所作は、花にしてみれば故郷の、おそらくは自分の両親の姿を思い出してのことだろうが、されている文若にしてみれば、理性の限界を試されているようだった。愛しい妻にあの装いで、この体勢で、あんなかわいい台詞を言われて、その上夕方から夜に掛けての時間帯で、膝枕で耳かきをしてもらうだけで済む夫がいたら、是非ともお目に掛かりたいものだ。

  あまりのやるせなさに文若は溜息しか出てこないが、聞こえてくるのは、激しく降り続く雨の音ばかりで、文若の密やかな溜息もかき消されてしまい、花の耳には届いていないようだ。
「なるほど、そういうことか」
ひとりごちて呟いた言葉は、意味をなさないまでも花に聞こえたようだ。
「文若さん、なにか言いました?」
色事には疎いのに、文若の言葉にだけは敏感に察知する花へ、さて、どう伝えたものか。先ほどから沸き上がってくる不埒な想いをそのままぶつけるには、あまりに花は無防備すぎて、後ろめたさもあり、どうも気後れしてしまう。かといって、このまま悶々と過ごすのも如何なものか。第一、自分と花は歴とした夫婦であり、多少予定は狂わされたが、今日は二人揃っての休日なのだ。それに、最初部屋に入ったときに花が抱えていた不安。むしろ、自分の方こそ花の夫として足り得るのか心配なくらいだ。婚儀を挙げてからも仕事優先で、認めたくはないが、夫よりも上司として接している時間の方が長いという自覚もある。
「花」
「なんでしょう?」
「膝枕で耳かき、のことだが。雨の日というのは何か意味があるのか」
「さあ、よくわかりません」
文若の予想通り、なんの疑問も抱いていないとわかる無邪気な返事だ。
「でも、こちらの雨は本当に凄いですね。私の国でもたまに集中豪雨とかありましたけど、こんな風に音がかき消されるような強い雨は希でしたから。それに、雨粒も大きいですし」
「そうなのか」
「雨って本来は透明な水なのに、銀色でとっても太いじゃないですか。初めて見たときは、一面銀色で、びっくりしちゃいました。なんだか銀色の竹林の中を歩いているみたいで。でも、音が凄すぎて窓から眺めるのには向いてないですね。前は、少しくらいの雨なら、窓からのんびり外を眺めることもあったんですけど。あ、かなは彼氏と蛍を見に行ったって言ってました」
「それでは、今お前がしているのは、たまの、強い雨の日に限られるということか」
「そう、かもしれません。だって、浴衣を着たら、やっぱりお出かけしたいじゃないですか」
脈絡のない会話に、花はころころと楽しそうに笑って文若の髪を撫でた。しかも、「やっぱり文若さんの髪って、すべすべして気持ちいいです」とのんびり曰っている。花がひとこと返す度に、文若の耳には甘い吐息がかかり、そろそろ我慢の限界にきているなど知るよしもないだろう。もともと色事には疎い娘だ。彼女の自覚を待っていたのでは、こちらの身が持たない。

「花」
先ほどまでとは違う、熱のこもった呼びかけに、文若の髪を梳いていた花の手がピクリと止まった。それまでは軽く返事もあったのに、相づちすら返ってこない。首を動かして仰ぎ見れば、一瞬だけ視線があったが、すぐに外されてしまった。心なしか、膝から感じる花の体温が高くなったような気もする。言葉にしなくても、どうやら声色だけで文若の想いは伝わったらしい。
「花」
もう一度呼びかけ、花の方へ向き直り、少しだけ身体を浮かすと片手を伸ばして花の頭を捉え、そのまま自分の方へ引き寄せた。柔らかなくちびるが文若のそれと触れ合い、ついばむような口づけを交わし、一旦は手を離す。文若が花の膝から頭を上げると花の身体が小さく震えたが、身を固くしただけのようなのを見て肩を抱き寄せた。枝垂れ掛かった花の身体を改めて抱きしめると、微かに悲鳴が上がった。
「このような雨の日にどこかに出かけるのは無理だろう。膝枕と耳かきとはよく考えたものだが、さすがに限界だ」
文若は素直に想いを告げ、抱きしめる腕に力を込めた。花の方は、あまりの急展開にパニック寸前で返す言葉がみつからない。夫婦なんだから、ましてや雨の日ゆえに、そういう休日もあるかもしれないが。
「まだ、明るいのに」
なんとか反論してみたが、散々煽られた文若にしてみれば、これでも随分我慢した方だと思う。
「それに、家令さん達が」
「夫婦がふたりきりでいるところへ押しかけるような無粋な者はおらぬ」
それらしい言い訳もあっさり躱された。
「でも、…」
消え入りそうな声が文若の耳に届いた。まあ、それも文若の予想の範囲内のことではあったが。だから、それに対する答えを当然文若は用意していた。
「これだけの激しい雨のことだ。少々の物音は雨音にかき消されてしまうだろう。想いを交わしたもの同士が雨の日に寄り添うというのは、そういうことではないのか?」
あまりに理論性然としている文若の言葉に、花はぽかんと彼を見上げるばかりだ。

そして、もうひとつ、文若には花に伝えたい言葉があった。
「花」
「は、はい」
「今日は、一緒に過ごしてやれなくてすまなかった」
「そんなこと…」
花の中にあった最後のわだかまりがゆっくりと解けていく。
「今日は、まだ終わっていませんから」
文若の請うような瞳にほころぶような微笑みを返し、花はゆっくり瞼を閉じた。

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2011.6.26
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