■勝負の行く先
「なんで、こんなことになっちゃったんだろ」
文若からもらった碁盤と碁石を前に、花はずーんと落ち込んでいた。

ことは、数日前、いつものように文若から頼まれた書簡を持って廊下を歩いていたときに遡る。最初の頃は、迷わないように目的の場所へ行くことしか頭になかったが、同じ道を何度も辿れば、さすがに花でも道は覚える。そうすると、それまで気が付かなかった回廊に並ぶ他の部屋の様子などが自然と目に止まるようになった。その中で、ふと目に止まったのが、囲碁の道具である。
その部屋は、おそらく他の文官達の休憩室に当てられている部屋なのであろう。他にも遊技の道具だろうと思われるものが散乱していたが、花が見知っていたのは、碁盤と碁石だけである。
「それもそうよね」
なんたって、ここは古の中国なのだ。囲碁の歴史に関しては日本より古いのだから、歴史にあまり詳しくない花でさえ、そのくらいのことは理解できた。また、文官たちの休憩室(とおもわれる場所)にあるくらいだから、ごく普通に遊んでいるものなのだろうということも想像に難くない。
「文若さんも、碁とか打つのかな」

「私がどうかしたのか」
ふいに頭上からふってきた声に、花の鼓動は大きく脈打ち、同時にそれが文若であることに気が付くと自然と顔に赤味が差す。
「文若さん!」
「書簡ひとつに、いつまで掛かっているのだ」
どうやら、花は自分が思っていた以上によそ見をしていて帰りが遅くなっていたようだ。見上げた文若の眉間に皺が寄っている。余計な心配を掛けてしまったらしいことに気が付き、花は申し訳なく頭を下げた。
「す、すみません。普通に歩いていたつもりなんですけど、つい、よそ見が過ぎてしまったみたいです」
花は正直に謝った。
「で、なにを見ていたのだ」
問いながらも、文若の目は花の視線を追っており、碁盤に気が付くのにたいして時間はかからなかった。
「碁、か。知っているのか」
知っているのか、と問われれば、是、である。ただし、正式な打ち方は知らない。
花は、あいまいに頷いた。
「…そうか」
気のせいか、声に明るさが入ったような?
黙って見上げている花に、文若は「たまには打ってみるのもいいかもしれぬ」と呟いた。
「え!?」
誰と、という花の思いは、予想通りの答えで返ってきた。
「もう少しすれば、碁を打つ時間くらい、とれるようになるだろう」
にこり、と声色に添えられた目は、間違いなく「花」を指している。
そして、花は文若から、余っている碁盤と碁石をもらったのである。

想い人からの、嬉しいはずの贈り物が、花の気を重くしている。
「五目並べしかできない、なんて知られたら、絶対呆れられちゃうよね」
「ふーん、そうなの?」
「きゃあ!」
「はーなちゃん。どうしたのかな?いくら文若と一緒に仕事しているからって、顔まで真似しなくていいからね」
花の驚く顔を、窓からにこにこと孟徳が見降ろしている。
「…孟徳さん、お仕事はどうされたんですか?」
慌てて花は、話題を逸らすべく、孟徳に仕事の話題を振ってみた。しかし、孟徳も慣れたもので、あっさりと「休憩中」と返し、「一緒にお茶してくれると嬉しいなあ」と付け加えた。
「わ、わたしは、仕事中です」
「でも、今は、碁を見てたよね?」
相変わらずにこにこと、しかも、花の触れたくない方向に話題をきっちり返してくる。
ここで「違う」といえば、「嘘」を付いたことになり、かといって「そうです」と答えれば、仕事中といったことが「嘘」になる。
「………」
つと目を逸らして、沈黙を守る花を、孟徳は面白そうに見つめていた。

「ま、いっか」
先に沈黙を破ったのは孟徳だった。花のあまりに困った様子を見て、孟徳にも思うところがあったらしい。
「俺としては、非常に面白くないけど」
孟徳は、一呼吸置き、「文若は、強いよ?」と付け足した。
何が、と聞き返すほど花も鈍くはない。というか、予想通りの答えだったともいえる。
「…そう、ですよね」
思わず呟いた言葉に、孟徳が笑っている。花は、自分の失言を悟った。
「ご、ごめんなさい!でも、でも、仕事中なのは本当です。まだ片付けなきゃいけない書簡がいっぱいあって、でも、ちょっとだけ疲れたなあって思って…」
「そんなに謝られたら、俺が花ちゃんをいじめてるみたいでしょ」
「でも…」
「そのかわり、相談に乗らせて?」
うんうんとひとり楽しそうに孟徳は交換条件を出した。
「それで、何を困ってるのかな、花ちゃんは」
孟徳のさらなる問いに、花は意を決すると、慎重に言葉を選んで答えた。
「…文若さんが」
「うんうん?」
「…もう少ししたら、碁を…打つくらいの時間は…取れるように…なるからって…」
花の声は、次第に小さくなり、最後はほとんど聞き取れないくらいだったが、孟徳には文若の話など、どうでもよいことだった。しかし、休み時間に、ふたりで仲良く碁を打つというのは聞き捨てならない。
「さっきも言ったけど、文若のヤツ、あれでいて囲碁は強いんだよね。俺だって、なかなか勝たせてもらえないくらいだし」
「え?」
さすがに、「そうなんですか」という言葉は飲み込んだ。そこで肯定するのは、さすがに不敬だと即座に気が付いたからだ。
「だから、花ちゃんもすんなり勝たせてはもらえないと思うんだよね」
孟徳の話しぶりから、彼の頭の中では、花はある程度囲碁ができることになってるようだ。いや、問題はそれ以前なのだが。
「でもさ、碁って、結局の所、戦術より心理戦なんだよね」
「心理、戦?」
「そ」
訝る花に、孟徳は楽しそうに言った。
「だから、ひょっとしたら、ひょっとするかもね」
きょとんとしている花に、孟徳は、手を伸ばして花の髪をひとふさ引っ張った。
「だから、花ちゃんが、文若に勝てたら、助言者にご褒美」
「はい?」
孟徳の目が妖しく光る。
「花ちゃんが勝ったら、一緒にお茶してね」
すいっと、花の髪を手放す寸前に、その毛先に口づける。

「丞相!」
文若の怒りの声と花が硬直するのとどちらが早かっただろうか。
「仕事を放り出して失踪かと思えば、こんなところで何をしていらっしゃいます」
文若は、花を窓から引き離すと、最初の一声とは違う冷ややかな声で言い放った。
「えー、花ちゃん補給」
しかし、孟徳は慣れたもので、しれっと答え、まだ固まっている花に茶目っ気たっぷりの視線を送る余裕である。
「ついでに、次の約束、かな」
孟徳は、文若が何か言う前に「花ちゃん、頑張ってねー」と素早くきびすを返したのであった。

いつもなら、文若が煮えを切らす寸前まで花に構う孟徳が、あまりにもあっさり消えたので、逆の意味で文若は不安になった。
「いったい丞相は、何をしに来られたのだ」
「…わかりません」
ようやく硬直から立ち直りつつあった花は、ぽつりと返した。
「まあ、よい。さっさと仕事をすませるぞ。碁の相手はそのあとだ」
文若の言葉に、花は今度こそ、泣きそうだった。

それから、どうやって仕事を終えたのか、花の心は上の空で、失敗せずに終わったのが不思議なくらいだ。文若の方は、花が間違えずに仕事を進めているのは、自分と碁を打つのを楽しみにしているくらいにしか思っていないようであった。もはや、今更、「碁の打ち方を知りません」と言える状況にはない。とうとう最後の書簡が片付いてしまい、ふたりの今日の仕事が終わってしまった。
(ど、どうしよう)
おたおたと後かたづけをしている花の横で、文若は碁盤と碁石を準備している。心なしか、文若の表情が和らいでいるように見えるのは気のせいであろうか?
「あの、文若さんは、囲碁がお好きなんですか?」
「嫌いではない。筋道を立てて考えるに、よい練習になるからな」
「筋道を立てて、考える?」
「我が軍の武将には、囲碁の強いものが多い。他国でも軍師には囲碁の強いものが多いと聞いている」
(も、もしかして、私も碁が強いと思われてる?)
文若のいわんとしていることを察し、花は途方にくれた。自分は「元軍師」でありながら、囲碁が強いどころか、打ち方さえ知らないのである。
「だが、戦術だけが勝敗を決めるわけではないからな」
あれ?と花は首を傾げた。
(孟徳さんと同じ事を言っている?)
「だから、お前にも勝つ機会があるかもしれんぞ」
この地点で、文若が花に負けるとは思っていないことがわかる。が、反面、囲碁が強いというふたりが同じ事を言ったことも気になった。
「えっと、それは、心理戦、ですか」
「実際の戦場でも、そうであったろう?お前は、見事に元譲の軍を退けている」
ふっと笑いながら、文若はパチリと最初のひとつを置いた。
(ど、どうしよう)
なすすべもなく、花は文若を困ったように見上げた。
申し訳なさそうに(実際、そうなのだが)、ちょこんと正面に座って、上目遣いに見つめ返している。
困った挙げ句の所作ではあったが、文若を正面から見るというのは、初めての経験だった。いつも斜め横から見上げているのとは、かなり違って見えることに今更ながら気が付いたのだ。
(文若さんて、正面からみたら、すごく凛々しい感じ?こういう顔も格好いいな)
格好いいな、と思った瞬間、思わず頬がほころんでしまう。
(あ、襟元とかきゅっと締まってて、ホント、引き締まって、何でも頼れるって感じよね)
頼りがいのある人について仕事ができるって幸せだなあと、口元が少しばかり緩んできた。
「?」
文若の片方の眉が、かすかに上がった。
(あ、眉が上がった。文若さんの眉って、しっかりしてて男らしいんだ)
ほうっと、声にならないため息が漏れそうになる。無意識に花は微笑んでいた。

一方、文若は最初の一手を置いただけで、花が次の手を打つのを待っていたが、彼女は正面に座ったまま、一向に碁石を置く気配がない。はじめは心細そうに座っているだけだったが、次第に表情に色が差し、やがて微笑みを浮かべるようになったのだ。
(何手先を読んだのだ?)
文若には、花の微笑みがひどく余裕を持った姿に映った。
(あれ?文若さんの表情が…なんか、困ってる?わー、こんな表情見るの、初めてかも)
いつもの眉間に皺を寄せた顔とは、また異なる苦悩した様子に、花は新鮮な喜びを得てひとりごちた。
(あれはあれで格好いいとこもあるけど、こういう顔って、かわいい)
文若の表情の変化に、心の中でだけ、きゃっきゃっと花ははしゃいだ。相変わらず、手は止まったまま動かない。目だけが花の心を映すかのようにキラキラ輝きを帯びてきた。
(くっ…数手先も読んだ…のか。いや、そんなはずは…だが、あの嬉しそうな顔は、かなり私に勝っている?)
碁の上級者ほど、相手の何手も先を読み、勝負を進めてから次の碁石を打つ。なまじっか碁に強いものだから、文若も相手がそうであると完全に思い込んでいた。花がなかなか次の石を打たないのは、勝負が見えているからだと。その証拠に、花は文若をまっすぐに見つめている。余裕の(と、文若には見えた)微笑みさえ浮かべて。

「…花」
「は、はいっ」
「なぜ、打たない?」
「…だって…」
現実に引き戻され、花の顔からさっと血が引いていった。
「あの、わたし…」
言葉を出そうにも、うまく声が出てくれない。ちゃんと本当のことを言わなきゃ、と花がやっとの思いで決心したとき…。
「もう、よい。私の負けだ」
「…はい?」
絶対あり得ないと思われた言葉に、花は、目をぱちくりさせ、改めて文若を見上げた。
「まったく、ここまでお前が先読みする手を打つとは思わなかったぞ」
ふっと機嫌良く笑った文若に、花は一瞬怪訝そうに思ったものの、すぐに文若の笑顔に釣られてぱあっとそれ以上に華やかな笑顔になった。
「そんな、嬉しそうな顔をしてくれるな。これでも少し傷ついているんだぞ」
反射的に「すみません」と言ったが、それ以上に文若の笑顔が嬉しくて、花はぽうっと見つめ返した。

「はーなーちゃん。その様子だと、勝ったみたいだね」
静寂を破ったのは、またしても孟徳の声だった。とたんに文若の眉間に皺が寄る。
「丞相、何をしておられます?」
「いやだなー、花ちゃんが、お前に勝ったかどうか確認しにきたに決まってるじゃないか。」
相変わらず孟徳は飄々と文若に軽く流し、花には余裕の笑顔で話しかける。
「間違いなく花ちゃんが、勝ったんだよね」
キラリ、と孟徳の声が強く響いた。文若はといえば、思い切り不機嫌な表情を浮かべつつも、一度は「負けた」と言った手前、違うとも言えず、孟徳を睨みつけたままだ。
「じゃ、花ちゃんの先勝を祝って、一緒に食事しよう。おいしいものをたくさん用意してるんだよ」
「え!?」
そんな話は聞いてません、と花はぶんぶんと首を振ったが、孟徳は完全に自分のペースで花の手を引き寄せた。
「だって、約束したよね?文若に勝ったら、助言者にご褒美って」
「そんなこと…」
記憶をまさぐれば、「だから、花ちゃんが、文若に勝てたら、助言者にご褒美」というフレーズがリフレインしてきた。
「えええ!?あれって、あれって」
思い出した瞬間の花の反応見て、孟徳は「ね、約束したでしょ」ととろけるような笑顔を花に見せ、同時に勝ち誇ったように文若の正面に立った。
「だから、花ちゃんは俺と一緒においしいものを食べようね」
「…お茶、を飲むんじゃなかったでしょうか」
おずおずと聞き返した花に、孟徳は、「もちろん、お茶が主だよ。食事のあとにね」と言い換えた。だから、嘘は言っていないと?
どちらにしても花を連れていく気満々の孟徳に、文若は最後の反抗を試みた。
「どの手で私が花に負けたと言われるのか」
「どの手も打てなかった。花ちゃんの心理戦勝ちだろ」
孟徳は自信満々に答え、文若が茫然自失した隙を突いて、あっという間に花を部屋から連れ去ってしまったのであった。
2010.05.29
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