■女の子の事情
劉備軍の軍師であった花が、公瑾と共にあることを望み、呉に残ってからしばらくは怒濤の毎日だった。傷の癒えた公瑾は、呉の都督として溜まりまくった公務に忙殺されたし、花も呉の生活に馴染むためにひたすら勉強の毎日だった。勉強すること自体に抵抗はなかったが、それまでとまるで価値観の違う生活に慣れるのは結構大変だった。それでも、花は若さ故の柔軟さで、徐々にこちらの生活に馴れていった。日常がそれなりに落ち着いてくると、それまで気にしなかったことがいろいろと現れてくるものだ。花がソレを意識したのは、本当に久しぶりで、だが、できれば忘れたままでいたかった。
「ホント、すっかり忘れていたのに〜」
花は、腰にいつもより一枚余分に布を巻き、お腹を押さえた。花を憂鬱にしているもの、それは、月に一度規則正しく訪れる月のものの痛みである。元の世界にいたときも時々軽い痛みを伴っていたが、こちらに来てからはそんなことを感じる暇もなく急転直下の毎日だったので、今の今まですっかり忘れていたのだ。花の生活が落ち着きを取り戻したのを見計らったように、じわじわと、あの不快感が復活した。初日の敵は、気怠さを伴った睡魔だ。ともすれば眠りに落ちてしまいそうな身体の重さにため息をつきながら、花はゆるゆると動いた。
「とりあえず、お茶でも飲んで身体を温めるのが、一番よね」
冬の寒いときの方が辛かったので、おそらく冷えが原因だろう。しかし、元居た世界とは違い、お茶一杯飲むにも、いろいろと手間が掛かる。第一に、ポットがないので暖かいお湯を準備することころから始めなければならない。公瑾の配慮で、気の利いた侍女達が付けられていたが、自分で出来ることは自分でするが当たり前になっていた花には、他人を使うというのがなかなかに困難だった。頼むより自分が動いて、何度公瑾に呆れられたことか。

「なにをしているのですか」
長い裾を踏まないように、ゆっくり湯瓶を持って廊下を歩いていた花は、ふいに掛けられた声に驚いて足を止めた。
「公瑾さん、」
お久しぶりです、と言おうとした矢先に、花の手から湯瓶が消えた。
「まったく、あなたという人は」
声は冷たいが、危なげない足取りの花を気遣い、公瑾はさりげなく空いた手で花を支えている。
「のどが渇いたのであれば、他の者にお茶を持ってこさせなさい」
「スミマセン。でも、」
このくらい自分でできます、とは心の中だけに留まった。
公瑾は、花の部屋に入ると、優雅な手つきでお茶を入れ、差し出した。
「ありがとうございます」
両手で受け取った茶碗から、ひとくちお茶を飲み、花は、ほうっとひと息ついた。
「どこか、具合でも悪いのですか」
「え?そんなこと、ないですよ」
ほんのり赤みがかった花を公瑾は見つめている。
「本当に?」
「はい」
念を押す公瑾を、花は不思議そうに見上げた。公瑾が自分に対してかなり過保護であるという認識はあるが、今の質問はそれとは別の所からでているように思えたからだ。
「明日、あなたにお見せしたいものがあるのです」
「どこかへ出かけるのですか」
公瑾の誘いに、花は、嬉しそうに尋ねた。
「交易船が帰ってきましたので、その出迎えがてら、港などをご案内しましょう」
出迎えという言葉に、公務?と身構えた花だが、公瑾は、私的な交易船ですから心配入りませんと笑った。公瑾は、私的と言ったが、名門周家の「私的」には、これまで驚かされてばかりきたので花としてはどうしても身構えてしまう。
「まあ、あなたが私と出かけるのがお嫌なら、無理にとは申しませんが」
「是非、行きたいです!」
花の即答に、公瑾は満足そうに微笑み、「では、明日は早いですから、今夜は早めにお休みなさい」と言い残して部屋を出て行った。おそらく、明日の外出のために、もうひと仕事してくるつもりなのだろう。花との時間を作るために、公瑾が少なからず無理をしていることは察していたので、彼からの誘いは断らないというか、断れない花である。

公瑾と明日、出かけるということは、ほぼ一緒に居られると言うことで、花はひとりでに頬が緩んでくる。が、次の瞬間、ズキリとした痛みを下腹部に感じて顔をしかめた。
「明日ってことは、もしかしなくても、二日目だよね」
そうなると、最悪の体調の日なのでは?と思い当たり、花は不安になった。しかし、せっかく公瑾が誘ってくれたのだ。このくらいのことで、外出を取りやめたりしたくはなかった。
「公瑾さんも公務じゃないって言ってたし、ゆっくり動けば、たぶん、大丈夫よね」
強引そうに見えても、公瑾は、必ず花の速度に合わせて歩いてくれる。歩くのがいつもより遅いと怪訝に思われるかも知れないが、そこは、こちらの衣装のせいにしてしまおう。花がいまだに裾裳の長いこちらの衣装に慣れず、足下が覚束ないことは彼も承知のことである。

翌日、花はいつもより少しだけお洒落して公瑾を出迎えた。顔色が悪いと心配させないように、侍女に頼んで薄化粧も施してもらった。花がおめかししているのは、恋人と出かけるからだと皆が思い、体調不良を誤魔化すためとは誰も気が付かない。普段は花のことになると鋭すぎるくらいの公瑾でさえ、自分が贈った衣装を綺麗に着こなした花を満足そうに眺めている。まずは、第一関門突破ね、と花は気合いを入れ直して公瑾の手を取った

その日の天気は快晴、心地よい海風が、港に吹き付けていた。これが何事もないときなら、どれほど気持ちよいことだろうかと、花は恨めしく思った。海風は、いつもより冷えやすい花の身体から、遠慮なく熱を奪っていく。花は笑顔を引きつらせて、公瑾の姿を追っていた。
交易船の出迎えは、確かに、都督の公務ではなかったが、周家にとっては大切なことらしく、公瑾は主立った人達にはひととおり挨拶する必要があるらしい。挨拶が終われば、ゆっくり案内しましょうと言ってくれたのを曖昧にうなずいて離れたことは覚えている。公瑾の立ち位置は、それほど花から離れていなかったが、そのわずかな距離を縮めることが、今の花にはできなかった。
「花」
いつもなら、公瑾のあとを付いてくる花が、珍しく海岸縁から動かないのを訝り、公瑾は花を手招きした。
だが、花はその場から動かなかった。公瑾が呼んでいることは目に写っているのだが、身体が反応してくれない。
「花!」
先ほどより、強く呼ばれた。それでも動かない花に、さすがの公瑾も不審に思ったらしく、猛然とした足取りで戻ってきた。

「花、どうしたのです?」
いつものあなたらしくない、と花の腕を掴んだ公瑾は、その冷たさに驚いた。折しも、軽い貧血を起こしかけていた花は、公瑾に腕を捕られると、それ以上ひとりで立っていることができず、あっさりよろめき公瑾に枝垂れ掛かった。
「花!」
いきなり倒れかかってきた花に、さしもの公瑾も驚き、花が我に返るより先に、花を抱きかかえていた。負担を掛けないよう、細心の注意を払って抱き上げた花の身体の冷たさに、二度驚き、うっすら目を綴じている少女に己の熱を分け与えるかのようの抱きしめた。公瑾の温もりで、花は意識を呼び覚ました。
「すぐに医者を呼びます」
公瑾の声に、花は、今度こそはっきり意識を取り戻した。
「ダメです!」
小さな悲鳴が漏れ、冷たい手足をもがかせて、公瑾から離れようとする花を更に強く抱きしめた。
「これは、病気じゃないんです!」
だから、お医者様は必要ありません、と必死に花は懇願した。
「そんなに動けなくなるまで悪化させた人のいうことなど、聞く耳をもちません」
公瑾の声は明らかに怒気を含んでいた。体調の悪い花を思いやって、口調だけは穏やかだが、花には公瑾の怒りがビンビン伝わってくる。
「でも、本当に病気じゃないんです」
今にも泣き出しそうな花に、少しだけ公瑾の歩みが緩んだ。
花の潤んだ瞳と公瑾の冷ややかな視線が交差した。
花は、なけなしの力を振り絞って顔を上げると、公瑾の耳元にできるだけ唇を寄せるようにして呟いた。
「…月に一度、」
消え入りそうな、その一言に、公瑾の歩みが完全に止まった。
「花」
花は、恥ずかしさのあまり、公瑾の胸に顔を伏せて抱かれたままになっている。幾度となく交わした口づけの時の抱擁でさえ、すぐに逃げ出してしまう花が、不測の事態とはいえ、温和しく公瑾に身を任せているという事実こそが重要だった。
「寒いのですか?」
耳元で囁くと、かすかに頷くのが感じられた。
「必要な挨拶は終わりましたから、これからの時間は、あなたのために使うことにします」

公瑾は、その言葉どおり、それからの時間を花と一緒にいてくれた。ただし、その場所が、花には大問題だった。
花の体調がすぐれないようですから休ませます、と使用人達に言って部屋に運んでくれたところまではいい。更に譲って、きっちり締めた帯を緩め、花が楽なように寝台に寝かせてくれたのも理解できる。だが、なぜ、公瑾までが花の寝台にいるのだろう。
「もう、大丈夫ですから」
困惑した花の声を無視して、公瑾は自分の間に花を抱きしめたまま離そうとしなかった。
「私は昔っから冷え性で」
「女性には少なからずそういう方がいらっしゃるようですね。よもやあたなもそうだとは、ついぞ気が付きませんでした」
一般論で答えながら、暗に花がなにも話してくれなかったことに含みを持たせている。
「だって、具合が悪いって言ったら、公瑾さんと一緒に出かけられないと思って」
花は多少の不調を我慢してでも公瑾と一緒に居たかったのだ。
「元の世界にいたときも、冬なんかは、どきどき…その、つらいときがありましたし。でも、試験の時とか、結構気合いで頑張れたので、今日も大丈夫かなって…思ったんですけど」
結果は散々で、公瑾に余計な心配を掛けた分、申し訳なさでいっぱいだった。
「でも、身体が温まったら、自然と治りますから」
いつもなら公瑾が触れるだけで身を固くしてしまう花だが、今は彼の体温の暖かさに救われていたので、無碍に逃げ出そうとせず、おとなしく抱かれている。それに花を抱いている公瑾の身体は温かくて、確実に花は体温を取り戻しつつあった。時折、花に触れる唇も、彼女の体温を感じるだけの優しい触れ合いで、花の緊張をほぐすのに一役かっていたようである。
「だから、その、もう、大丈夫です」
指先はまだ冷たかったが、少しずつ花の頬に赤味が差してきていた。もぞもぞと動き始めた花に、公瑾は大きくため息を吐いて見せた。
「私としても、千載一遇のこの機会を逃すのは非常に残念なのですが、一時の欲望に流されるのは、はなはだ不本意です」
柔らかな吐息が花の耳元を流れて消えた。少なくとも、今の状態の花に公瑾が無理を強いることはなさそうである。何気にほっとした花に、公瑾は淡々と囁いた。
「ですが、あなたが倒れたのは、私と一緒に居たいが為に無理をして潮風にあたり、身体が冷え切ってしまったからですよね」
それは花もわかっていることなので、反論できない。
「ですから、ここにいますよ」
一緒に居られて、身体も温まって、一石二鳥でしょうと穏やかに諭され、花は公瑾の戒めを解くのは不可能だと悟った。公瑾はどこまでも花に甘くて厳しい恋人だったのである。
2010.06.12
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