■トラウマのヒカリ
「だから、キミはもういらないんだ」
孔明の残酷な優しさが、花の意志を無視して、元の世界への道を開いた。本から発した柔らかな光が、やがて目も眩むほどの光の渦へと変わり、少女の悲鳴を飲み込んで、一筋の閃光となって消えた。
光の後に残ったのは、虚無の空間、のはずだった。だが、しかし、本は、孔明ではなく、持ち主である花の心に反応して、彼女をこの世界へ残した。少女は、不思議な本を失い、自らの意志で、愛する人と共に生きる道を選んだのである。

己の10年にも及ぶ情愛を押し殺してきた孔明にとって、花の幸せこそが全てで、彼女の幸せは、元の世界へ帰ることだとずっと思っていた。恋い焦がれてきた少女を腕に抱きしめたいという想いを秘め、自分の世界へ帰る彼女の負担にならないよう、「不思議な本を持った少女は、この世界にいらないんだ」と心とは裏腹のことを言ってしまった。それが、どれほど花の心に深い傷を負わせてしまったか、少しも気づかずに…。

表面上は、何も変わらない毎日が始まった。だが、親しい人には、孔明と花が、ただの師弟関係から恋人同士に昇格したことなどバレバレで、当面はふたりの行く末を暖かく見守ってくれている。もっとも孔明の愛情表現は、本人のポーカーフェイスぶりと、恋愛方面に疎すぎる花との間に温度差がありすぎて、芙蓉姫などはかなり本気で心配していた。

この世界に残ることになった花にとって、芙蓉姫は、とても頼りになる存在である。男所帯の軍にあって、同性の存在自体が頼りになるし、芙蓉姫はいろいろな意味で心強い友人であった。花はこの世界に本当に溶け込むためにも、知らなければならないことがたくさんあって、とりわけ、日常的に必要な買い物で頼りになるのは孔明よりも芙蓉姫に軍配があがる。休みも満足に取れない孔明と違って、花は、飛び飛びでも休みを取らされていたから、芙蓉姫と休みの日に、ふらりと町へ買い物へ行く機会が増えた。

年頃の女の子の話題は、どこの世界でも同じようなものだ。ただ、花は軍師見習いであり、芙蓉姫もまた一軍を任されている武将だけあって、現実的な話題を好む傾向にあった。互いの心の内を話ながら、芙蓉姫が感心したことのひとつに、花が、雷をあまり恐れていないということがあった。別に花に限ったことではないが、理屈抜きに、雷が嫌いという女性は意外と多い。
「だからといって、全然平気というわけじゃないよ」
城下町からの帰り路、この時期によくある遠雷を耳にしながら、花は言った。
「落雷の時の、あの凄い音とか、やっぱり恐いし。でも、音のすごさからいったら、軍鼓の方が響くもん」
だから、このくらいの遠雷なら恐くないかな、と付け足して笑った。
「まあ、確かに軍鼓は、響き渡らないと意味ないわね」
「でもね、雷がどうして鳴るのかとか、雷が鳴った時の避け方とか、私の国では、習うから、むやみに怖がる必要もない、かな」
知識として知っていても感覚的にダメだということはあるが、少なくとも花の場合、理性が勝っているようだ。こういう感覚が、おそらく無意識に軍師として向いている部分なのかも知れない。
「だから、芙蓉姫が雷が嫌いって方が、むしろ不思議っていうか、意外というか」
ただし、芙蓉姫の嫌いというのは、世間一般で言うところの雷に対する恐怖とは少し異なるらしい。
「なんていうのかしら、あの頭にざらつくような、じめじめした音!苛つくのよね。それに、しつこいし」
陰湿なところが誰かとそっくりでしょう、と芙蓉姫は花に同意を求めた。
ここで素直に頷くのも、「誰か」に悪くて、花は苦笑することしきり。その間にも、雷はかなり本格的になってきた。
「この雲行きだと、ひと雨来そうね。降り出す前に、帰れるといいんだけど」
「私なら、走れるよ?」
それなりに荷物はあるが、走れないほどの量を抱えているわけでもないので、花は、心持ち足を速めた。
「じゃあ、ちょっと、頑張りましょうか」
芙蓉姫と花は頷き合い、一緒に駆け出した。

城門に入る少し前までは、二人揃って特に問題なく走っていた。花に異変が起こったのは、まさに門へ到達する直前のことだった。
「おっと、おわっ」
ちょうど城から出てきた士元とすれ違いざまにぶつかり、いくつかの書簡が散らばった。
「ごめんなさいっ」
花は、すぐさま散らばった書簡を拾い始めた。書簡はすぐ集まり、花は自分が拾ったものを士元に手渡した。
「これで、全部ですか」
「ああ、すまん」
受け取りながら、薄目の書簡を、士元は花の目の前でぱらぱらめくって確かめる。花と向かい合わせになる形で、最後のひとつをめくり終えようとした時、すさまじい稲妻が炸裂し、雷鳴が辺り一面に轟いた。花には、書簡をめくる士元の姿が白くぼやけた。
「いやーっ!」
その瞬間、それまでの花からは想像も付かないような悲鳴が漏れた。
「あー、大丈夫だって、落ちたのはもうちょっと先だ」
視界が元に戻り、のほほんと士元が応じて書簡を丸めたとき、花はその場にへたり込み、茫然自失の状態に陥っていた。
「ちょっと、花!花ってば!」
花の異常に気が付いた芙蓉姫が、慌てて花の側に膝を突き、その肩を揺さぶった。
「…らないなんて…ないで」
「え?」
途切れ途切れに、紡ぎ出される言葉を繋ぎ留め、芙蓉姫は一瞬、耳を疑った。

同じように、花の異常に気が付いた士元は、何はともあれ城内へ引き返し、孔明の元へ走った。
「おい、孔明!」
「なんだい?今日の仕事が終わったんなら、さっさと帰れ」
いまだに続く雷鳴に少しも動じた様子がなく、孔明は黙々と書簡に筆を走らせている。
「そんな場合じゃない!お嬢ちゃんの様子がおかしいんだよ!」
「花なら、今日は芙蓉姫と出かけて城にはいない」
「だから、城門の前で、心神喪失状態なんだって!」
その刹那、孔明の姿が執務室から消えた。

城門前に駆けつけた孔明は、花の様子がおかしいのに、すぐ気が付いた。士元の言ったとおり、心神喪失状態というのは決して大げさではなく、事実だ。
「花!」
だが、孔明は、花にそれ以上近づけなかった。否、芙蓉姫が花を孔明から守るように身体で立ちふさがり、一歩たりとも近づけさせないのだ。芙蓉姫の鬼神にも勝る気迫は、孔明を完全に拒絶していた。無言で睨みつけているが、孔明には、芙蓉姫の声が確かに聞こえていた。「花に、なんてことを言ったの!」と。
花の、どんよりと焦点のあっていない瞳からは、涙が溢れていた。そして、その口から途切れ途切れに呟かれている言葉を綴り合わせた時、孔明は愕然となった。
「いらない、なんて、いわない、で」
孔明は、いつも花と一定の距離を保っていた。表向きは、師匠とその弟子という公私を保つため、だが、本音は、ひとたびタガが外れたら限りなく花を束縛してしまうだろう自分を律するためだった。花は、いつか自分の世界へ帰る人間であり、そうすることが花にとって幸せなのだと、孔明は自分に言い聞かせてきた。だから、過去から戻ってきた花が、自分の世界へ戻ることを迷う気配を見せたとき、それを断ち切らせるためにわざと冷たく接した。花のためによかれと思ってしたことが、花を深く傷つけていたことに、今の今まで気が付かなかった自分の愚かさが呪わしい。

少し遅れて戻ってきた士元は、そこで花を抱えるように庇っている芙蓉姫と孔明が対峙しているのを見た。時折、稲妻から派生したヒカリがふたりの間に割ってはいる。薄闇の中に、孔明の姿が映し出されるのを、花はぼんやり認識していた。
「…し、師匠?」
「花?」
花の孔明を呼ぶ声に、ピクリと芙蓉姫が反応し、わずかながらも孔明から視線を逸らした。その瞬間を逃さず、孔明は、花の側に近付き、膝を折った。孔明は芙蓉姫の射るような視線を黙礼で返し、花のだらりと下げられたままの左手をそっと包み込んだ。ゆっくりと頑なに握り込れている指先をほどき、再び閉じられる前に、自分の指と絡めて手を繋ぐ。無意識に花の頭が孔明の方へ傾いていった。

折しも、最後の雷鳴が夕立を置き土産に去って行った。激しい雨が、花の涙を洗い流していく。打たれた雨の冷たさに、花は正気を取り戻しつつあった。
「ボクには、キミが、花が、必要なんだ」
孔明は花の耳元に唇を寄せて、一言一言、区切るように何度も囁いた。
うつろな花の瞳に孔明の真剣な顔が映る。ふわりと花が微笑んだような気がした。
「花、いっしょに帰ろう」
今度は、芙蓉姫にも聞こえるよう、はっきりと雨足に負けないくらいの声で孔明は花に呼びかけた。
「はい、ししょ…え?」
パチリと花が正気に返り、真横の孔明と上から覗き込んでいる芙蓉姫に戸惑いの視線を泳がせた。
「落雷の衝撃で、一瞬、意識が飛んじゃったみたいだね」
間髪を入れず、孔明が軽く笑って言った。
「えええ!?」
にっこり笑う孔明の顔を間近に見たのと、左手が孔明の指先と絡めてあるのとで二重に驚き、視線を逸らせば、芙蓉姫の心配半分の呆れ顔にぶつかり、花は混乱した。確かに、空気を切り裂くような稲妻と耳をつんざくような雷鳴には覚えがあるのだが、その前後がはっきりしない。孔明の言っていることがにわかには信じがたく、芙蓉姫を見上げれば、諦めたように肩を竦められた。

「おーい、そこでいつまでもへたり込んでると、風邪引くぞ」
「あれ、士元さんまで、いる」
激しい雨の向こうに士元の姿を見て、花はようやく雨に降られていることに気が付いた。自分を囲むようにして、孔明も、そして芙蓉姫もずぶ濡れだ。もしかして、3人がこの雨の中をずぶ濡れなのは、自分のせい?と、花は申し訳なさでいっぱいになった。
「花、立てる?」
先に孔明が立ち上がって、自分と絡めてある花の左手を引き上げた。
「あ、はい、大丈夫です」
ゆっくりと花が立ち上がると、ぐっしょり濡れた衣の裾がまとわりついて、足下がかなり怪しげだ。
「転ばないようにね」
くすりと笑いながら、孔明はゆっくり花の手を引いて歩き出した。士元と芙蓉姫の目が気になって、花は手を引っ込めようとしたけれど、しっかり絡められた指先はびくともしない。
「あの、師匠、手が」
花の声が聞こえていないはずはないのに、孔明は無視を決めこんでいる。孔明から手を離すつもりは全くもってないことは、士元と芙蓉姫には一目瞭然だった。
「ほんと、わかりにくいったらありゃしないわ」
「まあ、お嬢ちゃん中心で自己完結してるからなぁ」
おかげで俺までブズぬれだとぼやきつつ、士元は去って行った。
芙蓉姫は、ぱしゃりとわざと孔明に跡バネが散るよう大股で歩いた。かかった水しぶきに、わずかばかり孔明の眉が上がったが、謝るつもりは毛頭ない。
「花、風邪、引かないようにね」
通り過ぎる間際、にこやかに花だけに絞って声を掛けることも忘れなかった。
「うん、芙蓉姫も、今日はありがとう」
いつもの笑顔に戻った花を確認して、芙蓉姫は安堵と軽い落胆を持ってふたりと別れたのだった。
2010.06.27
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