■南風のおくりもの
元の世界へ、家族の元へ帰ることより、好きな人と一緒にいることを選んだのは自分。そのこと自体に迷いはないけれど、たまに、ちょっとだけ後悔することがある。例えば…。

花にとって、疲れたときにお茶を飲んで甘いものを口にすることは、ごく当たり前の行為だった。しかし、こちらの世界では、お茶はもちろんのこと甘いものは贅沢品で、よほどのことがない限り口にすることはない。それでも、料理好きの雲長の恩恵で、花はそれなりに甘いものを口にすることができた。が、彼の好意にそうそう甘えるわけにも行かず、最近では、自然の恵みを利用することも覚えた。花にそれを教えてくれたのは、意外というか、灯台もと暗しというか、暇なときに一緒に遊ぶ子供達だった。
春の盛りには、つつじの蜜を一緒に吸うのに夢中になって庭の花を散らし、芙蓉姫に呆れられた。雲長は苦笑いしただけだが、孔明からは、「つつじには毒のあるものもあるのだから、むやみに口にするな」とこってり絞られたことは記憶に新しい。

ここしばらくは、忙しい日が続いて、子供達と遊ぶ時間などなかったが、最近は仕事も落ち着いてきたようで、1日は無理でも、一刻くらい、子供達相手におしゃべりするくらいのゆとりが持てるようになった。そろそろ誘いがあってもいい頃合いだ。
「花お姉ちゃん、今日は、遊べる?」
午後の書簡を持ち回っているとき、廊下の下からかわいい声がかけられた。
「うーん。そんなに忙しくないみたいだから、夕方くらいには、お話しできるかな」
「あのね、今日は、みんなで河原へツバナを摘みに行くの」
「ツバナ?」
「うん、とってもおいしいの」
子供達の「おいしい」は「甘い」に直結している。花の目がキラリと光った。
「一緒に行けるよう、頑張るわ」
書簡を持つ手にぐっと力が入る。確約は出来ないけど行けるように頑張るね、と花は小走りに廊下を通り過ぎていった。

初夏の南風は、よく雨を連れてくる。仕事は予定通り順調に仕上がりそうだが、窓からの暖かい風がなんとなく気になった。
「雨が降るのかな」
ぼんやり外を眺めたあとで、ぽつりと呟いた声に、孔明の声が返ってきた。
「ああ、茅花流しになるかもしれないね」
「ツバナナガシ?」
耳慣れない言葉を聞き返してから、はた、と今はまだ仕事中であることに気が付き、慌てて書簡に視線を戻した。しかし、余所見をしていたことは、しっかり孔明に見られていたようで、口の端が少しばかり上がっている。
「すみません」
「午後からはずっと休みなしで頑張ってるみたいだし、そろそろ集中力が落ちてきたってとこかな」
孔明は筆を置き、窓辺に立った。風に流される雲の行方を見ているようだ。
「このまま南からの風が続けば、今夜は雨だな」
「あの、師匠。さっきの、ツバナナガシって、雨のことなんですか」
「ああ。茅花の穂を解ぐすほどの南風がよく雨を連れてくるからね」
どうやらツバナは穂を持つ植物で、その穂をほぐすほどに吹き付ける南風が雨をもたらすということらしい。民間伝承なのだろうが、孔明の口ぶりから、あながち天気予報として外れているワケでもなさそうだ。しかし、そうなると…。
「やっぱり今日は雨が振るんでしょうか」
「ずいぶんと天気を気にしてるみたいだけど?」
「えっと、子供達と、その、ツバナ摘みに行きたいなーなんて思ってたりして」
ヘタに隠すとあとでややこしいことになるのは学習済みだから、ここは素直に子供達と約束があることを話した。
「どこかに出かけたりする?」
「それは、たぶん、出かけても、城壁そばの河原あたりだと思います」
「それじゃ、ますます茅花流しに遭わないよう、早めに帰らないとね」
てっきり反対されるかと思ったが、あっさり許可が出て、花は拍子抜けした。
「キミと子供達のささやかな楽しみを奪うのは、ボクとしても不本意だからね」
花には子供達とツバナ摘みに行くことが何をするのかわかっていないが、孔明には、花と子供達が河原で何をするのかわかっているらしい。わからないが、孔明が反対しないということは、悪いことではないということだ。そうとわかれば、孔明の気の変わらぬうちに、さっさと仕事を終わらせて子供達のところへ行こうと、花は再び、仕事を再開した。
孔明としては、諸手を挙げて花と子供達が遊ぶのを賛成しているわけではないが、花が楽しみにしているのと、その程度のことで焼き餅を焼いたと誰彼に噂されるのもシャクだから、あえて反対しなかっただけだ。花との時間を全て自分のものにするなど、とてもできない相談なのだから。

孔明の心遣いもあって、花はいつもよりかなり早い時間に仕事を終わらせることができた。
「あの、じゃあ、行ってきます」
「くれぐれも風の動きには気を付けて。南風が止まないようなら」
「子供達もいますから、陽が落ちる前には帰ります」
一応、子供達の保護者的存在なのだという自覚はあるらしい。不安の種は尽きないが、どこで何をするかわかっているだけ、自分が気を付けていればいいことだと、孔明は花を送りだした。

花が子供達に連れられて来たのは、話に聞いたとおり、城壁からすぐの河原に広がる茅花の原っぱだった。稲穂というより、エノコログサ(猫じゃらし)によく似たふわふわの穂が南風にたなびいている。なだらかな風のときは、ゆらゆら揺れて、強い風が吹くと確かに穂が解けるように広がって見える。
子供達は、風にたなびく白い穂ではなく、まだ若い葉に包まれた緑の芽を摘んで、むしゃむしゃと口に運んだ。花も見よう見まねで、緑の芽を摘んでおそるおそる口に含んだ。
「あ、甘い」
蜂蜜の甘さとはまたちがう、爽やかな植物の甘味に、花の顔は自然にほころんだ。試しに、白い穂を摘んでみたが、こちらは堅くてとても食べられそうになかった。
「猫じゃらしになったら、食べられないんだ」
白いふわふわの穂の方が美味しそうなのにと、花は、残念そうに穂を眺めた。眺めるだけなら穂の方が風に揺れて面白いし、何より白絹のような美しさがある。摘んでしまった穂を食べられないからと捨てるには惜しい気がした。
「あ、師匠に」
(お土産って持って帰ったら、呆れられるかな。)
でも、お土産なら、普通、食べらる緑の芽の方だろうと考え直す。しかし、自然の恵みとはいえ、甘味の若芽を渡すのは、子供っぽすぎて顰蹙をかう可能性もあった。そもそも、孔明は花と違ってあまり甘いものは好きでないことも知っている。結局、悩んだ挙げ句、花は、猫じゃらしにも似た白い穂の方を数本持って帰ることにした。嫌そうな顔をされたら、自分の部屋に飾ることにしよう。そのくらい花は、茅花の穂が気に入っていた。

花と子供達が仲良く出かけた後も、孔明は自分の仕事をせっせと片付けていた。以前よりかはだいぶマシになったが、それでもやることはたくさんある。士元にも、問答無用で書簡を回すようにし、きっちりその日の仕事分は終わらせた。
「なんか、やな雲行きだね」
窓から入ってくる南からの暖かい風を浴びて、士元は空を仰いだ。
「こりゃ、まちがいなく茅花流しだな」
孔明だけでなく士元も同じ予想を立てたのだ。間違いなく雨は降るだろう。それなのに、花はまだ帰って来そうになかった。陽が落ちるまでにはもう少し猶予はあるが、雨が今にも降り出しそうな曇り空が恐ろしいほどの早さで広がっている。
軽くため息をついて、孔明は席を立った。行き先はわかっているのだし、迎えに行くほどのことでもないが、なんといっても花は予想の範疇を超えた動きをすることが多々ある。無事に帰ってきたことを城壁警備の兵士に確認くらいしておこうと執務室を後にした。

「で、なんで士元まで付いてくるかな?」
「仕事が終わったんだから、一杯つきあわないかなーと誘ってるとは思わないわけ?」
花がいないのだから、たまには付き合えと士元は笑っている。せっかくの誘いだが、花の無事を確認するまではそんな気にならない。なんだかんだ言っても孔明は花が心配なのである。
孔明は、城内の見回りを装って、あちらこちらの兵士に話しかけ、花たちが出かけた河原付近の城壁を目指した。孔明が城の様子を把握するため、兵士達に話しかけるのはよくあることなので、特に気にする者はいない。士元をやり過ごす目的もあり、孔明はわざとゆっくり歩いていた。

士元の足取りが孔明から離れた頃、ようやく目的の城壁が見えてきた。兵士達の様子から、まだ花と子供達が戻ってきているようにはみえない。が、孔明に気が付くより早く、兵士達の顔が河原の方へ向いたので、どうやら戻ってきたらしい。ほどなくして、子供達の賑やかな歓声が聞こえてきた。孔明の予想したとおり、河原で茅花の若芽の甘味を堪能してきたようだ。はしゃいでいる声から、おそらく花も楽しんできたに違いない。甘いものを食べるときの花の幸せそうな顔を思い出し、孔明はひとり笑みをもらした。
幸いにして、雨もまだ降っていないし、どうやら天気が持ちこたえている間に花たちは戻れそうである。当面の目的は果たしたので、孔明は、ゆっくりと方向を変えた。

「どうせここまで来たんなら、お帰りって出迎えてやれば、花殿も喜ぶだろうにねえ」
いつの間にやら士元が再び孔明の後ろに戻ってきている。
「城壁の出迎えって、恋人っぽいだろ?」
にやにやしながら話しかけている士元の意図は、孔明にはわかり過ぎる程簡単で、それだからこそ、無視を決め込んだ。こういう時、できすぎる友人というのはありがたくない。救いと言えば、花がこちらの学問事情に疎いため、からかいようがないということだろうか。

人気のあまりない城壁付近で、兵士でもない、明らかに文官とおぼしき男がふたり歩いているのは、結構目立つものである。ましてや、ひとりは孔明とあれば、花が気が付かないはずがなかった。子供達が間違いなく城内に入ったのを確認してから、花は子供達に別れを告げ、孔明の方へ駆け出した。
「師匠!」
ぱたぱたと裾を翻して走ってくる声に立ち止まれば、それみたことかと士元がしたり顔で笑っている。士元に見られたのはしゃくに障るが、花を無視するつもりはなく、孔明はゆっくり振り返った。孔明が立ち止まったのがわかったのか、花は満面の笑みで駆け寄ってくる。その心からの笑みに孔明は心が温かくなるのを感じた。
が、次の瞬間、花の腕に抱えられている、白い穂に目が釘付けになる。何事にも秀でた孔明は、もちろん薬草の類にも詳しくて、花の胸元で揺れている白い穂が、茅花であることはすぐにわかった。孔明にわかったということは、士元にもわかったということだ。
「花、そんなに走ったら転ぶよ、止まって!」
急いで孔明は立ち止まるよう呼びかけたが、花はそのまま、孔明の元へ辿り着いてしまった。そして、予想通りの行動に出る。
「はい、師匠。お土産です。河原で咲いてたんですよ、きれいでしょう」
花の腕の中で茅花の白い穂がキラキラと揺れている。白絹に喩えられる穂は確かに美しい。花の純粋な好意から持ち帰ってきた気持ちもわかる。だが、あまりにもタイミングが悪すぎた。
「師匠?」
孔明が無反応なのは、別に今にはじまったことではないが、無視されていると言うより、固まっているという感じで、花はきょとんと首を傾げた。
「いやー、凄いものみせてもらったなあ」
反対に、今にも腹を抱えんばかりに破顔の士元に花はますます困惑した。そもそも、この場に士元がいる事実に違和感がぬぐえない。
「まさか、ホントに静女を地でくるとはねえ」
「士元、それ以上なにか言ったら」
恐ろしく冷たい声に、士元は首を竦めた。士元の様子から踏んはいけない「何か」を踏んでしまったようなのだが、花にはさっぱり要領をえなかった。
「あー、はいはい、邪魔者は退散するさ。ねえ、花殿は、」
「士元!」
蹴り上げんばかりの孔明に士元は颯爽と身を翻し、一目散に城下町へと消えていった。

「あの」
花はもう一度孔明に視線を戻した。
「やっぱりこういうのって、よくなかったですか」
差し出された白い穂を心持ち不安げに引っ込める所作を孔明の手が止めた。
「それ、くれるんでしょ?」
ほんの少し力を込めて握られている孔明の手が熱い。触れ合っている場所はわずかなのに、まるで恋人が全てを委ねた時に交わす情熱にも似た熱さだ。答えようとして喉がゴクリと鳴った。
「部屋に飾ったら、きれいかなって思ったんです…けど」
最後は消え入りそうなくらいか細い声で俯いてしまった花を、孔明は全理性を総動員して見つめていた。花は、ただ綺麗というだけで茅花の穂を孔明にと持ち帰ったのだ。自分だけ子供達と出かけたお詫びの意味も少しはあっただろう。そもそも詩経に精通していない花が「静女」を知るはずもなく、本当に他意はないのだと、孔明は何度も自分に言い聞かせた。だが、このままではとても、持ち堪える自信がない。このときほど、孔明は己の学問に精通した知識を呪ったことはなかった。

理性は、ダメだというけれど、感情の方が抑えが効かなくて、孔明はそのまま花の手を掴んだまま歩き出した。半ば強引ともとれる足取りだが、ちゃんと花の歩く速度に沿っているため、花は何か釈然としないものの、素直に孔明についてきた。
孔明が立ち止まったのは、彼の私室の前だった。扉を開け、半分だけ花を部屋へ招くようにして問いかけた。
「ねえ、花。本当に茅花をボクにくれるの?」
いつもよりさらに低い声が、花の耳元で囁かれた。そのつもりで摘んできた茅花だが、ここで頷くのはものすごく危険だと花の本能が点滅している。しかし、今更、ちがいますとも言えず、花は、ぎゅっと茅花を握りしめたまま孔明を見上げた。不安の色を濃く宿した花の瞳に、孔明は大きく深呼吸ともため息ともつかない息を吐き出した。
花に「静女」を教えるのは簡単だが、それだけではおそらくその真意が伝わらないだろう。だいたい韻を踏む言葉遊びの領域を今の花に理解しろという方が無理な話なのだ。それに、根気よく花に理解させるだけの余裕が今の孔明にはなかった。
「茅花はね、ツバナと書くんだ」
孔明は、花の手を取って、韻を踏んだ方の文字を綴って見せた。一文字で示されたその漢字を花はまじまじと見つめた。それは、決して難しい字ではなく、花のよく知るところの漢字だ。漢詩に限らず、和歌でも同音異義語で、表の意味と裏の意味を表現することはよくあることで、そのくらいの知識は花も持ち合わせている。
茅花の穂と、手に書かれた文字と、孔明から伝わってくる熱と、3つの要素が重なって、そこから導き出された言葉に、花はみるみる真っ赤になっていった。知らなかったとはいえ、考えなしになんてことをしてしまった、否、しようとしているのか。
それとわかるほどに朱に染まり、あたふたと視線を泳がせる花を孔明はただ見つめていた。やがて無言の視線に花が気が付き、おずおずと見返してきたところで、孔明はもう一度尋ねた。
「花を、くれるね?」
それは、尋ねると言うより、確信に近い確認だった。孔明の切ないまでの想いが掴まれた手を通して伝わってくる。孔明がどれほど自分を欲しているのか、今更のように思い知らされた。
「孔明さんが、好きです」
うまく言葉として言えたかどうかわからないが、花は、吐息混じりに伝え、茅花を握りしめたまま、孔明の胸に身を委ねた。白く揺れる茅花の穂と、花の衣が孔明の腕に抱き留められ、扉は閉められた。

■静女
「詩経」から、風160篇のひとつで、愛し合う男女の逢い引きの歌。
城壁の隅で待ち合わせをした恋人がなかなか来なくて、やっと来た恋人は郊外の野原から摘んできたツバナを贈ってくれた。という、意味の漢詩なんですが、ツバナの漢字は「為」謂と同じ。
ツバナを贈る=私を贈る、って意訳になるらしいです。
2010.07.08
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