■銀の道であなたに逢いたい
それはとても静かな夜だった。花の元居た世界に比べて、こちらの世界は夜の訪れが早い。灯りが贅沢品ともいえる人々の暮らしでは、日没と共に一日が終わることも珍しくはないが、それにしても静かすぎる。同時に、いつもより寒い気がする。足下が冷えるというだけでなく、建物全体が底冷えするとでも言うのだろうか。人の気配も薄い気がして、花はなんとなく不安になり、そっと扉を開けて外に出てみた。
「え、雪?」
部屋の外は、夜の闇の中にもはっきりとわかるほどに白い世界が広がっていた。道理で寒いはずである。そして、積もった雪は、城内のざわめきを、人の気配までも吸収し、静かな夜を形成していた。

花の世界にも雪はあった。たまにうっすら積もる程度ではあったが、雪を見ること自体は、これが初めてというわけではない。それなのに、今見る雪の降る様は、とても新鮮だった。寒さに弱い花としては、あまり歓迎できる状況ではなかったが、その無垢な世界は、花の心に穏やかな灯りを点した。
「孔明さんに逢いたいなあ」
何気なく漏れた言葉に、我ながら赤面してしまう。
想いを伝えて、この世界に残り、一緒に居る時間は確かに増えたが、それはあくまで、師匠とその弟子、もしくは上司と部下としての時間であり、ふたりの間に私的な時間は皆無だった。たまの休息時間に、孔明を膝枕することはあるけれど、その回数も最近はめっきり減って、この前したのがいつだっけ?というくらい遠い話になってしまっている有様だ。
新しい蜀という国造りに、孔明が寝る間も惜しんで心血を注いでいる姿を日夜見ているし、土台が固まるまでの今が一番大切な時期というのも頭では理解している。だからといって、休みなしで働きづめというのはどうだろう。自分は徹夜しても、花には早く休めと夜になると執務室から追い立てられるのは納得できない。体調管理も仕事のうちとはいうけれど、孔明自身については全く考慮されていないと断言できる。
無心に降りつもる雪を見ながら、花はそれまで貯め込んでいたいろいろな想いが次から次へと溢れて来るのを感じていた。だから、白い世界は、何色にでも染まるのだ。夜に降り積もる白い雪は、花の想いを飲み込み、花の目にだけ別の色に変わっていく。その色に惹かれ、花はそっと部屋をあとにした。

深夜に近い時刻、孔明は、ここ数日徹夜に近い状態からようやく脱却できたと、区切りの付いた案件を取りまとめ、筆を置いた。疲れたまぶたに手をやれば、夕刻、花を執務室から追い立てるように帰す度、自分に向けられていた彼女の視線が脳裏に浮かぶ。はじめは反抗的なだけだったが、次第に不安な色を帯びてくるようになり。
(今日は泣きそうだった)
花を泣かしたいわけではないのに、結果として泣かしていることに一抹の罪悪感がよぎる。だからといって、孔明の性格上、公私はきっちり区別されるべきものであり、仕事に私情は禁物だ。だいぶ読み書きが出来るようになったとはいえ、今孔明が手がけている案件に花が手伝えることは少ないのだから、早く帰すのは上司として当然の判断だ。そう無理矢理自分を納得させ、孔明はゆるゆると疲れた身体を伴い、執務室に鍵を掛けた。
ひとたび廊下を歩み、ふと踏みしめる感触に違和感を覚えた。木の堅い感触ではなく、何か別の柔らかなきしみが身体に伝わってくる。回廊をかなり進んだあたりで、孔明はようやく、それが雪に寄るものであることに気が付いた。風に流れ回廊に積もった雪が、深夜の音を全て飲み込んでいた。無音の闇の回廊を、無言で孔明が進んでいく。

花が部屋から外に出た頃に降っていた雪は、城の庭に来たあたりでピタリと止み、変わって月明かりが白い世界を照らし出していた。いつもなら透明で金色に照らす月が、雪の白に反射されて銀色の淡い輝きを放っている。
白銀の世界、銀色の道。懐かしい世界で耳にした雪の世界を表す言葉が花の中で次々と繰り出され、闇夜とは別のものを形成していた。夜中に年頃の娘がふらふらと出歩くのはよくないことだとわかってはいるけれど、城の奥深いこのあたりは、限られた人間しか入ることを許されていないし、その限られた人だって、こんな寒い雪の夜に出歩くはずがない(自分のことは、取り敢えず置いておく)、と花はひとり、銀色の世界に浸っていた。

無音で雪の回廊を歩いていた孔明の歩みが不意に止まった。その目は、城の一角で釘付けになり、花の姿を認識するや否や駆け出していた。
「花!」
深夜の庭に、孔明の静かで鋭い声が響く。それまで全ての音を吸収してきた雪も、孔明の声ばかりは吸収しきれなかったようで、怒りの響きすらきっちり含めて花の耳に届けられた。
「し、ししょっ」
その瞬間、花は弾かれたように振り返り、あたふたと現実の時刻を刻み始める。
(な、なんで!?)
花が振り返り、一歩を踏み出すより早く、孔明は花の前に立ち塞がった。
「いつから?いつから、ここにいるの?ボクは、休めって言ったよね?」
孔明から決して大きくはないが、低い声が降ってくる。いつもなら、花が瞬時に首を縮めてしまう不機嫌な声だが、この時ばかりは花の反応が違った。声を掛けられた時はさすがに焦ったが、考えてみれば、今は執務時間ではないのだから、上司として怒られるのは納得できない。私的時間にまで干渉されるなんて理不尽だ。それまで花の中で押さえつけていた何かが銀世界に溢れ出た。
「ちゃんと休んでますよ?」
花はまっすぐ孔明を見返して言った。
「私は、ちゃんと休んでます。今は、雪を見て、心を、休めてました。ひとりで、いっぱい仕事を抱え込んで、部下にだけ早く帰れっていう上司にスゴク腹が立って、でも、結局、役には立たない自分が情けなくて。雪は、そんな私の心を、鎮めてくれました」
ひとことひとこと紡がれる言葉は、孔明に何かを訴えるような響きを持っている。
「でも、雪を見て、寒かったから、」
冷たい夜の空気に花の声が掠れた。
「孔明さんに、逢いたかったんです」
俯いて小さく呟かれたその言葉の中に秘められた想いを聞き逃すようでは、伏龍として、否、花の恋人として失格だろう。孔明の目から厳しさが消えた。替わりに現れたのは、花へのどうしようもないくらい愛しい想い。
コツンと、孔明の額が花の額に合わさった。孔明の熱が花の冷え切った額に少しずつ温もりを戻していく。
「ゴメン、花」
深夜の雪の中に佇む花を見たとき、恋人ではなく部下として呼んでしまった自分を孔明は恥じた。花は「孔明」に逢いたいと思っていてくれたのに、上司の目線で応えたのでは、無粋の極みではないか。
孔明は、花の身体にそっと腕を回し、そのまま引き寄せるとしっかり自分の胸に抱き寄せた。その瞬間、思っていた以上に冷たい恋人の身体に、孔明の顔は自然と険しいものになっていく。いくら何でも、これは冷えすぎだろう。
(本当に、この子は)
「恋人に逢いたかった」という心情を差し引いても、十分叱るべき状況なのではあるまいか。そう思い直し、表情を改めたのも束の間、孔明より一瞬早く、花の嬉しそうな声が腕の中から発せられた。
「こうしてると、なんだか白い恋人達みたい」
虚を突かれた孔明に、うふふと、花の幸せそうな笑みが伝わってくる。
「月下の銀世界で、孔明さんに逢えてよかったぁ」
うっとりと孔明の胸に頬を寄せ、花は心底うれしそうに縋り付いた。めったに見せない恋人の甘えた姿は、疲労の限界に来ていた孔明を敢えなく陥落させた。これ以上、花から熱を奪うものは許さないとばかりに、孔明は花を抱き上げると、銀色に照らし出された回廊を足早に進んでいく。
「こ、孔明、さん」
冷えすぎて思うように動かない手足をしゃちほこらばせて、花は孔明を仰ぎ見た。怒ったような、それでいてどこか困ったような孔明の横顔に、花は言うべき言葉を飲み込み、自由なままにあった両手を彼の背に添えた。銀色の道の先を月の光はどこまでも照らし出していた。
2011.01.16
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