昔日夢〜狭間にある者〜


その時代、人と人ならぬものの境界は曖昧だった。魔力もつ人は珍しくなく、人に仇なす魔物の討ち手も少なからず存在した。王とはそうした者達を統括し、人を守ることを務めとしていた。王に仕え、魔物を狩る者は衛士と呼ばれた。王は衛士を従え先頭に立ち魔物と戦ってこそ王足り得た。



1.王宮

 すらりとした若者が手入れの行き届いた美しい庭を見下ろす窓辺に佇んでいた。
 そよ風が赤茶の髪をゆらす。整った顔立ちだけなら、やや冷たい印象を与えるかもしれないが、まとう雰囲気が柔らかく、どこかしら人を惹きつけるものがあった。若者は庭を覆う新緑と同じ色の瞳をぼんやりと宙にさまよわせていた。
 数年前の同じ季節、元王妃付きの女官であった母に連れられ、初めて訪れた王宮で、かの人に出会った。
 衝撃だった。
 世の中には、かくも奇麗な少女が存在するのかと目を疑った。
 目を丸くする自分に向かって、やんわりと年上の少女はほほ笑んだ。
 髪は月光を紡いだような銀糸、瞳は鮮やかな夏の森の緑。
 かつて母親がひざに抱いて聞かせてくれた伝説に語られる銀の森の妖精かと思ったほどに可憐な少女だった…。
「シャ〜ザ」
 ぺたりと冷たい手がほおに触れた。
「うわあああっ」
 思い切り驚いて、跳び上がる。
「なぁに、その驚き方。失礼しちゃうわねぇ、シャザったら」
 おっとりと間延びした声が響く。
「な、な、なんですかっ、リール様」
 シャザはばくばくする胸を押えた。いくら思い出に浸っていたとはいえ、王家の衛士を務めるシャザの背後を取れるのは王宮でもごく僅かしかいない。そして、そういうことをするのはこの人しかいない。
 アルフェリール・リド・クレール、このレンドール王国の世継ぎである。シャザは主人に向き直って、うっと言葉に詰まった。
 銀髪緑眼のその人物は華やかなドレスを、もっと正確に言えば、花嫁衣装を纏って艶然とほほ笑んでいた。白無地に金糸銀糸で刺繍がふんだんに施されたレンドールの伝統的な花嫁衣装だ。
 深呼吸をしてシャザは生気のない目を主人に向けた。
「…お幸せに」
「まあ、シャザったら」
 ぽっと頬を薔薇色に染める。器用なものだとシャザは呆れながらも感心した。
 その姿は恥じらう妙齢の乙女そのものである………その深い響きのある低い声と広い肩幅さえなければ。
 かつての可憐な美少女は均整の取れた体格の美青年に成長していた。
「一体、何なんです、その珍妙な恰好は?」
「ひどいですわ、母上にはよく似合っているとお誉めいただきましたのに」
 両手を頬にあてて嘆いてみせる。確かに広い肩幅さえ気にしなければ似合ってはいるのだ。顔だけ見れば、絶世の美女と言ってさしつかえないだろう。
 …またあの王妃様か。
 どうしても娘が欲しかった王妃は息子が女顔なのをいいことに、幼い頃からしばしば一人息子にドレスを着せてその欲求を満たしていたのである。それが原因で自分を含めて今まで何人の者が、心に深い傷を負ったことか。
 成長期に入り、背が伸び、肩幅が広くなるにつれ、この王妃の娯楽による被害は減り、最近ではドレス姿の王子という世にも珍しいものを見ることも少なくなったのであったが…回数が減っただけのことである。
「母上が、娘の花嫁姿を見るのが夢とおっしゃって」
「…はあ、花嫁…」
 力なくつぶやく。シャザは主を直視しないよう何もない空間に視線を泳がせていた。
「花嫁には花婿がつきものでしょう?」
 ぞくぞくぞくっと急激に寒気を覚える。
「私、用を思い出しましたので」
 すっと王子の腕がシャザの腕にからみついた。がっしりと腕を押え込まれ、シャザは顔をひきつらせた。
「私に見劣りしない花婿はあなたしかいないと、母上と女官達の意見が一致しましたの。さあ、参りましょう、愛しいお方」
 背筋のぞくりとする低音が耳元にささやく。瞬間冷凍されたシャザはそのまま抵抗もできずに連行されてしまった。

 まあと感嘆の声をもらした後、品のよい貴夫人はうっとりとした目のまま、微動だにしなくなってしまった。どこか別の世界へ意識が飛んでしまっているらしい。息子と同じ緑の瞳の中で、きらきらと光が乱舞している。基本的にアルフェリールは母親似だった。
「よくお似合いですわ、姫君」
「絵のような美男美女とはお二人のことですわね」
「なんてすてき」
 無責任に女官達がはやしたてる。シャザはぐっと拳を握り締めた。
「シャザ」
 王妃がようやくこちらの世界に戻って来て言った。
「花婿はもう少し嬉しそうな表情をすべきでしてよ。これほど美しい花嫁を迎えて、嬉しくない花婿などどこにもおりませんわ」
 ぴくりとシャザは口元をひきつらせた。
「いやですわ、母上ったら」
 恥じらう乙女そのものの態度と口調で王子が身をくねらす。
「世界一の果報者ですわね、シャザは」
「…私は一生涯、花嫁などを迎えるつもりはございません」
 じっとりと暗い声でシャザは告げた。
 まっと王妃と女官達が目を見開く。
「そんなもったいないこと…」
「シャザならばどんな美女もよりどりみどりですのに」
 母子が口を揃えて言う。こんなところは容姿以上によく似ている。
 深く息を吸い込んで一気に吐き出す。
「…お忘れかも知れませんが、私は女、です」
 一瞬の沈黙が訪れた。
 おほほほほと王妃が軽やかな笑い声を上げる。
「そんなことは知ってましてよ、シャザ。当然じゃありませんの」
「いやですわ、シャザ。忘れるなんて、とんでもなくってよ」
 空々しい親子の笑いが重なる。
「たとえ、多くの若い娘が胸をときめかしていようとも」
「たとえ、殿下と並ぶ長身でいらしても」
「たとえ、王宮で一番、腕力があろうとも」
 シャザ様が女性であることは、もちろん覚えてますわと女官三姉妹が口を揃えて言う。その一言、一言がシャザの胸をえぐったのだが、本人達に悪気はないらしい。だが、その無邪気さは罪である。父譲りの並はずれた長身をシャザは心底、恨めしく思っていた。王宮でシャザが見下ろさずに済むのは国王父子だけであり、その彼らも視線の高さはほぼ同位置にある。楽しげに母子と少女達の騒ぐなか、シャザは虚ろな視線を遠くに彷徨わせていた。



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