昔日夢〜狭間にある者〜
5.水魔


 国境の大河を半日下れば、目指すヴェアラッド公の領地だ。
 河を渡る船を待ちながら、シャザは川面を眺めていた。川幅は広く、対岸はほとんど見えない。上流で雨が降ったのか、流れは少し濁っていた。水量はさほど増えていないので、河を渡るのに障りはないだろう。風の力を利用してゆるゆると上流に向かう船が見える。この河は交通の要所であり、レンドール王国とサノワル王国はしばしばその利権をめぐって争っていた。どちらもできる事ならば領土を拡大して、完全にこの河を支配下に置きたいと願っていることだろう。
 船頭と交渉していたドゥイーがにやにや笑いながら戻って来た。
「どうしたんだい、気持ち悪いな」
「いえね、面白い噂を聞きましてね。なんでも、近ごろ、年よりばっかり狙う水魔が出るんだそうで」
「年よりばかり?普通、魔物が狙うのは若い人間のはずなんだけどね」
 そんな魔物のこと、聞いたことがあるかとアルフェリールがリアドに目を向ける。
「いや。年を取れば取るほど、『肉』はまずくなるからな。生気を食らう妖魔の類なら、年長者を好む奴もいるが」
 新種かなとアルフェリールは首を傾げていた。
「リール様も狙われるかもしれませんぜ?なんせ、今まで襲われた年よりってのは、皆、真っ白な髪してたって話でしてね。白が好きなんじゃねぇかって、言ってましたよ」
 皆の目がアルフェリールに集中する。
「失礼な。私は白髪ではないよ」
「低能な魔物には白髪も銀髪も区別はつかねぇと思いますがね」
 それは言えてると衛士達は思ったが、これから乗り込む船の上では逃げ場がないので、皆、素知らぬ顔で沈黙を保っていた。

 激しい揺れをものともせず、甲板で髭面の男がげらげらと腹を抱えて笑っていた。どこにもつかまらず、腹をかかえて笑うのだから、たいしたものである。
「隊長、笑っている場合じゃないでしょう」
 顔にかかった水しぶきを拭いながらシャザは言った。水しぶきをたてているのは、先程から船の周りでうごめいている触手だ。かわいらしいピンク色をしているだけに、気色悪さが倍増する触手の数本が船縁にからみつき、船を捉えている。太い触手のなかで、泡のようなものが、うにうにと変形しながら蠢いているのも気色悪い。やや離れた水面には魔物の頭部とおぼしき乳白色の丸い物体が浮かび、巨大な三つの濁った目がこちらを見据えていた。その視線を集めているのは、アルフェリールのように思われたが、目玉が巨大すぎていまひとつわかりにくい。
 水音にまじって地を這うような低い笑い声が響く。
「この私を…年よりと間違うとは…無礼者めがっ!」
 その言葉に、一層、ドゥイーの笑いが大きくなる。彼を知らない人間には恐怖のあまりに狂ったのかと思われるかもしれない状況だ。そのすぐ横で、うねうねと触手がうねっていた。
 次の瞬間、巨大な火球が魔物を包んだ。
「おお、丸焼き!」
 派手な魔術を見慣れている衛士達は気楽にやんややんやと喝采を浴びせる。
「…まずそうだ」
 ぼそっとリアドがつぶやいた。魔術師は腕組みしたまま、魔物を見据えていた。魔物にも彼が魔術師とわかるのか、彼には触手をのばさない様子であった。
「魔物にもうまい、まずいがあるんですかね?」
 触手を避けながら素朴な疑問を衛士の一人が口にする。
 先程から、切り付けて見るのだが、ぬらぬらした皮膚に刃が滑るだけで徒労に終わっているのだ。
「ある」
 魔術師は妙にきっぱりと言い切った。思わず、食べたことがあるのかとシャザは聞きたくなったのだが、肯定されても困るので黙っておいた。
「…生意気」
 アルフェリールのつぶやきに顔を上げる。
 魔物は魔法に耐性を持っていたらしく、焦げ目ひとつついていなかった。ぐいっとアルフェリールが槍をつかんだ。
「無駄だ」
 声をかけたリアドにちらりと目を向けたが、かまわず、アルフェリールはそのまま槍を投げ付ける。自身でやってみないと納得しないという面が彼にはあった。
 槍は過たず魔物の目に刺さった…かに見えたが、一瞬後には跳ね返っていた。
「これは普通の魔物ではない」
 落ち着き払った口調でリアドが言った。
「どういう意味だい?」
「簡単にいえば、合成物だ」
 ひょいとリアドは無造作に手を伸ばして触手をわしづかみにした。
「魔力を持たぬものが魔法への耐性が高いことは自然ではあり得ない。…斬撃と突きに対する防御は高められているようだが」
 ぐっと手を引くと、激しい水音が起きた。黒い影が空を過ぎる。派手な水音をたてて、船の反対側に落下した影の正体は根元から引き千切られたらしい触手だった。水面が触手と同じピンク色に染まった。
「結合は弱いらしいな」
 なんて非常識なと皆が息を飲むと同時に船体が大きく傾いだ。
 やはり痛かったのか、魔物が激しくのたうったのである。甲板にいた人々は手近にあるものにしがみついて、船から振り落とされるのを避けた。
 黒髪の魔術師は一人堂々とよろめきもせずに立ちながら、赤茶の髪の衛士に目を向けた。
「シャザもこれくらいできるはずだが」
 非常識の仲間に入れられてしまった。
 できると言われれば、それまでだが、ぬめる外皮に直接手を触れることにはためらいがある。すぐ近くでアルフェリールがぶつぶつとつぶやくのが聞こえた。
「外側が柔軟で結合が弱いってことは…」
 ぽうっとアルフェリールの指先に光が灯る。すっと軌跡を描いて飛んだ光は怒り狂う魔物の傷痕に吸い込まれた。見る見るうちに魔物の体が膨張する。
「うーん、よく伸びる皮だね」
 感心してアルフェリールが頷いた途端、魔物が弾けた。ばらばらになった魔物の体と体液が甲板に雨霰と降り注ぐ。
「…もっと、きれいに始末できないんですかっ」
 触手の先を頭にのせたままシャザは怒鳴りつけた。ぼとぼととピンク色の粘着質の液体が甲板に落ちる。
「だって」
 ひょいと竦められたアルフェリールの肩にも魔物の断片がひっかかっている。長い銀の髪にも花びらのように点々とピンク色の液体が付着していた。
「どのくらい弾性があるのか、見てみたかったんだよ」
 誰かこの男をどうにかしてくれとシャザは心の底から願ったが、そのような救済者が現れたことは今まで一度もなく、これからも決してないだろう。
 その後、第五衛士隊は王子とともに甲板掃除に従事することになった。



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