女王と騎士

第三部 夢と現-百騎夜行編- (13)

 女王は執務に飽きたらしい。
 そろそろ御夫君にお出ましを請うべきかと思いつつ、ヴェルシュは素知らぬ顔で書類の整理を続けていた。
 彼の斜め前方において、女王陛下はいかにも気の進まぬ様子で彼女の裁可を求める書類に向かい合っている。
 ひとまず、本日必要なだけの執務はこなしているが、常に仕事は余裕を持って進めたいヴェルシュとしては、もう一頑張りしてもらいたいところだ。
 女王は署名する手を止めて、扉の前に立つ長身の近衛騎士に目を向けた。
「ウェイ、そなた、ひょっとして不機嫌ではないか?」
 青年は黙ったまま灰銀色の目で女王を見返した。女王の真意を測りかねているかのようだが、そもそも彼が女王の意志を推し量る必要性を感じているとは思えない。多分、自分が不機嫌なのかどうか吟味しているのだろう。特定の人物が関わらぬ限り、彼の感情はきわめて起伏に乏しい。
 結論が出たのか、ウェイはようやく返事をした。
「いいえ」
「そうか?…おかしいな。私ならばクルスが仕事だろうと何だろうと若い美人二人と一緒にいると不愉快な気分になるんだが。そなたはアシュリーズがジラッド公子やカリュートと一緒にいても平気なのか?」
 ゆっくりとウェイは頷いた。
 平気も何も、他の腕の立たぬ連中と一緒にいるより、よほど安全だとでも思っていることだろう。
「…ふーむ」
 女王は何やら考え込んでいるが、こういう時の女王はろくなことは考えていない。
 ふと女王はヴェルシュに顔を向けた。
「…ヴェルシュでは参考にならんな。見せかけの愛想良さは折り紙付きだ」
 呟いて、再びウェイに視線を戻す。
「リーズには聞くだけ無駄か。ウェイが愛想良くしているというだけでも想像を絶する」
 朧気ながらヴェルシュには女王が何を考えているか分かりつつあった。
「イェナとルーダルならば大丈夫だな。フィルは…まだ相手がいないか。ユリクも除外すべきだな。後、女官の中では確か…」
 女王はすっかり労働意欲を無くしているらしい。
 そこへ、ヴェルシュの心が通じたかのように女王の夫が姿を現した。
「クルス・アディン、もし、私が若い男どもと愛想良く話をしていたらどう思う?」
 唐突な質問に銀髪の青年がたじろぐことはなかった。
「喜びます」
 間髪入れずに応える。
「何!?」
「陛下が御気分よく務めを果たせるに越したことはないでしょう?」
 にこりと微笑んでクルス・アディンは言い返す。
「…ぬ。そうではなくて、私的な場でだっ!」
「そうですね。取り敢えずは王国の安泰という大義名分の下で、その方々には行方知れずになってもらうかもしれませんね」
「ふむ、それならよいのだ」
 やはり、多少の嫉妬はしてもらわねばつまらぬからななどと女王は言っている。これから、同じような質問をあちこちの人間にぶつけるつもりでいるのだろう。
 女王は夫の言葉を冗談あるいは誇張した表現として受け止めているが、ヴェルシュはそれがかなり本気であることを見抜いていた。勿論、「その時」は自分も王国の安泰のために彼に手を貸すことだろう。
 そんなことを考えているヴェルシュの前に、女王の夫はさりげなく書簡を差し出した。
 ヴェルシュは微かに眉を動かした。
 隣国に潜伏させている配下からの新たな知らせである。
 いよいよ面倒なことになってきたようだ。
 小さくヴェルシュは溜息をこぼした。
 そんな彼の姿を無口な騎士が眺めている。
 女王陛下の覚えめでたき近衛騎士の最大の望みが楽隠居であることを知る人間はごく少数であった。


 冬の寒さとは無縁にその場所は熱気に満ちていた。
 木刀の打ち合う激しい音の中、巷では恋仇と目されている青年達はのんきな顔を並べて、彼らの争奪対象であるはずの南陽王国の王妹の動きを目で追っていた。
 今の彼女の動きを目で追うことのできる人間は少ない。
 少なくともこの場にいる人間の中で、それが可能なのは彼ら二人くらいのものだろう。
 王妹は王宮に入ってまだ半年も経たぬ騎士見習い達に剣の稽古をつけてやっていた。
 騎士見習い達には手加減なしに打ち込んでいるように見えるが、実際のところは、かなり手を緩めている。もしも、この王妹が本気で打ち込んだならば、木刀であっても、死人が続出することだろう。それを騎士見習い達が知るようになるのはまだ先のことだ。彼らと王妹の間ではあまりに力の差がありすぎた。
「もう手合せはなさらないのか?」
 宵闇公国の第二公子はからかうように「恋仇」に声をかけた。
「私は勝てない戦はしないんですよ」
 やれやれとばかりに言う青年をジラッドは意外そうに見遣った。
「まだ貴公に分があるように思えるが?」
「今は、です。アシュリーズ様は、並外れて器用で吸収が早いんです。相手が使った技をすぐさま自分のものにしてしまうんですからね、回を重ねるごとに、こちらは分が悪くなる」
 それはそれでこちらも励みになりますがとカリュートは付け加えた。
「なるほど…言われてみると、そうだな」
 今まで数度手合せしたが、する度に、手ごわさが増しているように感じられたのは気のせいではなかったらしい。アシュリーズが勝つ回数も後半から増えた。
「公子様も用心なさった方がよろしいですよ。求婚者である限り、アシュリーズ様に負けっぱなしという事態は避けねばならないんですから」
 からかうようにカリュートは片目をつぶってみせた。
「肝に銘じておこう」
 青年達は声もなく笑った。
「ところで、まだ帰国されずともよろしいのですか?公子ともなれば、何かとすることはおありでしょう」
 牽制するでもなく、純粋に好奇心からカリュートが聞いた。
 現在の宵闇公国の情勢は内外ともに安定しているとは言い難い。
「問題ない。兄はともかく、父はかなり本気で王妹殿下と私の縁組を考えているんだ」
 お陰でこちらは、好きなだけ滞在できるがと皮肉な笑みを浮かべてジラッドは応じた。
「おやおや、それでは私と同じですね。私も祖父がすっかりその気になって、家には帰らなくてもいいから王妹殿下と親しくなれと、うるさいんですよ。仮に王妹殿下が我が家に降嫁なさったら、喜びのあまり心臓が止まってしまうでしょうから、祖父思いの私としてはそういう事態を避けなくてはならないんですが」
 カリュートがにこにこと言う。
「これも王妹殿下がいつまでも独身でおられるからなんですよね。そのせいで、私は意中の人を妻に迎えることがなかなかできない」
 そう言った青年目がけて飛んで来た木刀をひょいとジラッドは体を捻って片手でとらえた。青年自身も避けることはできただろうが、放っておいたら後ろにある壁に被害がでたことだろう。
「自分の不甲斐なさを他人のせいにするな!」
 王妹が琥珀の目をつり上げながらやって来る。
 標的とされた青年はそんな王妹の怒りなどものともせず、のらりくらりと言い返した。
「いいじゃないですか、そんなにけちなことをおっしゃらずとも」
 この男も腹の底が見えない奴だなとジラッドは半ば感心しながら、その横顔を眺めた。女王の審美眼には適わなかったものの、なかなかの男前である。
「いずれ私も公子様もふられ男の名を冠するようになるんですからね」
 知るものかとばかりにアシュリーズは鼻を鳴らした。
「私はすでに別件でふられ男なんだが」
 慎ましくジラッドが申告すると、
「おや。実は私もそうなんですよ。もう数え切れぬほど同じ人にふられてます」
 と、カリュートが嬉しそうな顔になった。
「…どうでもいいが、前途ある若者達の前でそういう情けない話を披露するのはやめてくれ。一応、貴公らは『騎士としては』彼らに尊敬されているんだからな」
 疲れたような顔で王妹が言った。いい加減、この連中の相手をさせられるのは勘弁して欲しいと思っていることは明らかだ。
 騎士見習い達は素知らぬ顔で訓練に励んでいるが、彼らの会話は筒抜けで、どこか居心地悪そうな空気が漂っている。中には好奇心いっぱいに目をきらきらさせている少女達などもいるが、全員が全員、彼女達ほど逞しいわけではない。
「現実の厳しさを知ることも大切なんですよ。挫折を味わってみるのもよい経験です」
「カリュート、貴公のいる騎士団への配属希望者が減っても私は知らないからな」
 冷ややかにアシュリーズが言うと、第五騎士団の副団長を務める青年は、それは困りましたねと少しも困っていない顔で笑った。


 細く冷たい雨が大地を湿らせていた。
 遠くの景色が霞んで見える。
 このまま冷え込みが続けば、やがて雨は雪に変わるだろう。
 若者は足を止めて灰色の雲に覆われた空を見上げた。
 見渡す限り、雲の切れ間はない。
 雪を目にするのは何年ぶりのことだろうか。
 隣接していても、土地に高低差があるためか、南陽王国と緑森王国では気候がかなり異なる。とりわけ緑森王国の都がある中心部は高地にあるため、雪は珍しくなかった。
 雪は嫌いだ。
 幼かった自分が母親から引き離されて神殿に入れられたのも雪の日だった。
 神殿に行くのは厭だったが、拒否すれば母親が責められると分かっていたので、おとなしく伯父に命じられるままに家を出た。
 母親は泣いていたような気がするが、はっきりとは覚えていない。
 母親に関する記憶自体、曖昧なもので、もはや顔立ちも思い出すことができない。
 それだというのに、伯父の冷やかな蔑みの目だけは、はっきりと覚えていた。
 緑森王国の貴族特有の鮮やかな緑の目。
 母親も多分同じ色の瞳をしていたのだろうが、夏の森を思わす緑は思い出すだけで不快な色だった。
 それが、不快でなくなったのはいつだったろう。
 若者はゆっくりと暗緑色の目を閉じた。
 冷たい雨が外衣に染みこみ身体を凍えさせる前に屋根の下にたどり着くべく彼は足を速めた。


 泣き叫ぶ女がいた。
 長い金茶の髪を振り乱し、男にすがりついて何かを訴えている。
 衣服と美しい白い指から一目で貴族の、しかもかなり高位の身分の女性と知れる。
 彼女がすがりつく相手も高位にある人間だ。
 男は丁寧にしかし断固として女の手を振り払うと踵を返した。
 どくんっと心臓が脈打った。
 私はこの男を知っている。
 女が何か叫んだ。
 それまで無表情だった男が微かに笑った。
 冷たく無慈悲な嗤いだった。
 …あの時と同じように。
 目覚めると、全身が強張っていた。
 ゆっくりと息を吐いてライカは体の力を抜いた。
 やけに体が重く感じる。
「やってらんないわ」
 夜明け前の闇に向かって低くつぶやく。
 この森神殿に戻ってからというもの、「夢」を見ることが増えた。夢といっても、ただの夢ではない。過去に実際にあった出来事の再現なのだ。自分に備わる「過去見」の能力が時の記憶を拾いあげて来るのだが、断片的な「過去」に煩わされるなど、うっとうしいことこの上ない。
 近ごろでは、ライカは夢に対し恐怖よりも怒りを感じるようになっていた。
 やはり、最近、怒りっぽくなっているのかもしれない。
 昨日、ライカの育ての親とも言える老神官にそう指摘されたのだ。
 そのことを思い出したおかげで、ライカは更にその続きの不愉快な記憶も蘇らせてしまった。
 善良なるジェナル神官は慈愛の笑みをたたえつつ、「彼」と早く仲直りするようにとやんわり諭してくれたのだ。
「冗談じゃないわよっ」
 ライカはぐっと毛布を握り締めた。
 元々、存在しない仲が直るはずもない。
 確かに、自分がいらだつ原因はあの馬鹿男にあるが、理由が違う。
「なんで私があんな男とっ」
 誰がなんと言おうと自分の理想は知的で温厚で誠実な男性だ。
 あんな得体の知れないちゃらんぽらんな男など真っ平御免だというのに、何故、いくら違うと言っても誰も誤解を解いてくれないのだろう。
 この自分がよりによってあの男と「恋人同士」だという不愉快かつ不名誉な誤解を!
 外界から隔絶された空間において、他人の噂は何よりの娯楽なのだ。
 怒りのあまり、すっかり目が覚めてしまったライカは二度寝する気にもならず仕方なく起き出した。
 朝の祈祷を始めるには早すぎるが、一日中、解放されている礼拝室を清めるにはちょうどいい時間だろう。夜明け前から祈祷に訪れる人間はめったにいない。
 手早く身支度を整えると、ライカは神官服の上に毛織の肩掛けをまとい部屋を出た。
 魔法の明かりによって照らされているため、ぼんやりと明るい廊下に自分の足音だけが微かに響く。
 この棟に個室を与えられている神官は若手の魔法士ばかりだ。彼らのほとんどが若年でありながら個室を与えられることに違和感を覚えていないだろう。この神殿で大切に育てられた若者達は外の世界を知らない。
 自分の魔法力の開花が遅かったことは幸運だった。もし、この神殿を出る前に今備えているだけの魔法力が現れていたら、希望したとしても外の神殿に出されることはなかっただろう。
 階段を降り、長い廊下の角を幾つも曲がって目的の場所に続く中庭に出た。
 この中庭の手前にある森神の祭壇までならば一般の参拝客も出入りすることを許されている。奥にも森神を祀る祭壇はあるが、そこへ入ることができるのはごく限られた人間だけだ。
 ライカは肩掛けをかき合わせた。
 風が強く、潅木の茂みが音を立てて揺れている。溶け残った雪が所々に残った地面はすっかりぬかるんでいることだろう。
 庭を突っ切るのは止め、回廊を通り、森神の祭壇の横に出た。そこから、なんとなしにライカは東の端にある陽の女神を祀る礼拝室に足を向けた。早く夜が明けることを願っていたからかもしれない。
 礼拝室の入り口まで来たライカは中に人の姿を認め、足を止めた。
 一瞬、黒い髪にぎくりとしたが、「あの馬鹿男」と違い、短く切り揃えられていた。
 旅装の男がゆっくりと振り返る。
 まだ若い。二十歳にもなっていないだろう。
 若者は静かに会釈した。
 その服装と微かに感じた魔法力からしてまず間違いなく魔法騎士であろう。
「おはようございます。随分、早いお越しですね」
 参拝客用の柔らかな笑顔とともにライカは挨拶した。この光景をオルトが目にしていれば、猫かぶりとつぶやいて足を踏まれていたことだろう。
 若者は僅かに肩を竦めて見せた。
「昨夜、到着したのが遅かったものですから、勝手ながらこちらで夜を過ごさせていただきました」
 この神殿の周辺には人家はなく、最も近い町からも距離があるので予測を誤れば、日のあるうちに神殿にたどり着くことができなくなるのだ。そのため、参拝客用の宿泊場所も設けてあるのだが、この若者はどうやらそのことを知らなかったようだ。
 ライカがそれを教えてやると、若者は皮肉な視線を投げ返した。
「わざわざ担当の神官殿を起こすのは気が咎めましたので」
 この神殿には特に外部の人間に対して尊大な態度を取る神官が多い。本来ならば、あるべきことではないが、参拝客に起こされたとすれば、当直の神官は不機嫌を隠そうともしないだろう。確信はないが、若者はそれをあてこすっているのだろうと思われた。
 ライカが黙っていると、若者は祭壇の上の女神像に目を移した。
「ここでは、陽の女神の恩恵も…届かないようだ」
 言って、若者はふいと礼拝室を出て行った。
 ライカには彼が「ここでは、陽の女神の恩恵も『森に遮られて』届かないようだ」と言ったように感じられた。
 それとも、それは自分が思っていることだろうか。
 我に返るとライカは若者を追った。
 さすがは騎士と言うべきか、足が速い。すでに若者は廊下の先にある出入り口から外に出て行くところだった。
「待って」
 自分でも何故、彼を呼び止めようとしたのかは分からない。だが、恐らくは彼の中に自分と同じ何かを感じたせいだろう。
 若者は止まらなかった。外に飛び出したライカの目に入ったのは頼り無い明かりに照らされた石畳だけだった。
 風にまじって、女の哄笑が聞こえた気がした。
 ライカは耳を澄ませた。
 葉ずれの音にまじって、とぎれとぎれに声が聞こえる。
「…来る…災いの…が…南…すべ…」
 どこか嬉しそうな、狂気をはらんだ声だった。
 …これは、予見なの?
 ライカは唇をかんだ。
 空を見上げたが、星はひとつも見えず、東の空が明るくなる気配もなかった。
 ただ冷たい風が空を鳴らしていた。
 神殿の奥に幽閉されていた先見の能力を持つ女性が息を引き取ったことをライカが知ったのは、それから二日後のことだった。