女王と騎士

第三部 夢と現-百騎夜行編- (26)

 神殿長の許可を得てのみ使うことが許される貴人用の礼拝室は他の人間が入って来ることはないので、密談には向いていると思われがちだ。しかし、この陽神殿本殿においては盗み聞きできるようあちこちに隠し部屋や通路が存在するので人に聞かれたくない話は絶対にしてはならない。もっとも、それを知るのはほんの一握りの神官だけだった。
 陽神殿の若き女神官はこっそりと溜息をついた。
 もういい加減、諦めてくれないかしら。
 彼女の真向いに座っている青年は彼女の手をとり、せつせつと神殿を出て彼のもとに来るよう説き続けている。
 神殿にいることは不幸だと勝手に決めつけ、自分が必ず幸せにするからなどという戯言を真面目に言ってのける無神経さが癪に障る。
 すぐにも手を振りほどいてやりたいのだが、まだこの男からは情報を引き出さなくてはならない。
 リシュテは彼女にそれを命じた上司達を少々恨めしく思った。
 早いところ、用済みになってくれないかしら。そうすれば、思う存分に罵声を浴びせることもできるのに。もちろん、他に人がいないところでだけれど。
 重ねられた手から伝わる熱が不愉快だった。
 その手はリシュテの手をすっぽり包みこめるほど大きいが、肌は柔らかく、労働とは無縁の存在であることを示している。神殿での労働の多くを免除されているリシュテの手の方がまだ固いかもしれない。
 苦労知らずの手。
 自分の手でつかみ取ったものなど何ひとつないくせに、与えられた以上のものを欲する傲慢な男。
 上滑りな言葉が心に届くはずもなく、嫌悪感は強まるばかりで、耐えるのも苦痛になって来た。
 もう限界だ。
 リシュテはさっと手を引っ込めると、殊更冷たい声を出した。
「さっきから都は危険だなどと言うけれど、何が危険だと言うの?仮に北との戦が始まっても戦場は遥か遠くだわ」
「それは……」
 青年が言葉に詰まる。表情は分からないけれど、逡巡しているのは分かった。
「何も根拠のない脅しで私を引っ張り出そうとしても無駄よ。あなたが言うことなら全て正しいと思っていた子供ではもうないの」
 話は終わったとばかりにリシュテは立ち上がった。青年はその手をつかみ、引き留めた。
「……王都は戦場になる。どうしてとは言えないが、間違いないんだ」
「あら、そう。隣国から、ここまで進軍するなんて大変ですこと」
 頭から信じていない口調でリシュテが言えば、青年は手に力をこめた。
「女王の敵は北だけじゃない。……頼むから、私とともに帰ってくれ」
 リシュテは皮肉な笑みが浮かびそうになるのを堪えながら俯いた。
 なんて大胆極まりない男だろう。
 王家に反旗を翻すだけでなく王都に攻め上ろうなんて。
 そんな大それた考えを抱いているくせに、自分がいかに危険な立場にいるのか全く気づいていない。
「痛いわ」
 はっとした様子で青年が手を緩めた隙にリシュテは身を翻した。
「あれから何年経ったか分かっているの?……信じたくても、信じられないのよ」
 泣くのを堪えているような声で言い、リシュテは逃げるようにして礼拝室を出た。
 思った通り、青年は追って来なかった。無理強いはしないと言ったことだけは守っているようだ。
 リシュテは乱暴に髪をかき上げた。
 これで、もう一押しと思ってくれればいいんだけど。
 だが、自分にとって最良なのは、彼が説得を諦めてくれることだ。
 廊下を歩くリシュテの横にすっと人の気配が並んだ。
「役者になれそうだな」
「演技なら、信者の前でいつもしてますもの。トーヴァ様、まだ引き留める必要があるのですか?」
「もうしばらく待ってくれ。証拠がな、やつの言葉だけでは足りない。それにしても、あの男、余程、そなたを手に入れたいのだな」
「私を『不幸な境遇』から救い出して、自分に酔いたいのでしょうよ」
 吐き捨てるような口ぶりに、トーヴァは軽く眉を上げたが、リシュテにそれは見えない。
「手厳しいな、元婚約者に対して」
 厭な言葉を聞いたとばかりにリシュテは顔をしかめた。子供の頃に親が勝手に決めた取り決めだ。
「……彼に接していると、昔の自分を思い出さずにいられませんから。私、昔の自分が大嫌いなんです」
 愚かで、自分のことすら見えていない人間。自分がそうであったことが恥ずかしくてならないのに、あの男はそれを恥ずかしいとも思わずにいる。
「トーヴァ様、早くどうにかして下さらないと、私にも我慢の限界があります」
 リシュテは語気を強めた。
「善処しよう。……どこへ行く?」
 もう夕の祈りの時間だぞと祭壇の間ではなく、逆の方向へと足を向けたリシュテをトーヴァが訝しむ。
「手を洗いに行くんです」
 トーヴァの笑い声を背に、リシュテは参拝者用の出入り口に向かった。その横には小さな泉が造られており、聖堂に入る前に手足を洗うことができるのだ。
 少し頭を冷す必要もあるかもしれないわ。
 祈祷の前に余計なことを頭から追い出して心を落着けておかねば、陽の女神にも失礼だ。
 怒りが水とともに流れてくれることをリシュテは望んでいた。


 扉を開くと湿っぽい匂いが充満していた。半地下にある書庫ともなれば、それも当然のことだろう。毎日のように若い女神官が書庫を訪れることを書庫番をしている老神官は怪訝に思ってはいる様子だが、きちんと挨拶し、書物を丁重に扱うライカを咎めることはなかった。彼女が魔法士であることを知っているから、何か魔法に関する研究をしているのではないかと自分を納得させているのだろう。
 ライカはその日も、決まった書棚の前に行き、この森神殿で行われた儀式の記録書に手を伸ばした。焼打ちにあったことのないこの場所には、およそ二百年前の創設当時からの記録が保管されていた。儀式に関することのみとはいえ膨大な量の記録になる。しかし、特定の儀式のみ拾い出せばよいので、調べるのもそこまで苦にはならなかった。ただ、時代を遡れば遡るほど、字が薄れ、読みづらくなるのが難点だった。
 初めはただ繰り返し夢に見た、森神に子供を捧げるという儀式について、何か手掛かりになるものはないかと読み進めるだけだった。そうしているうちに、家柄も名前も記されぬ子供の存在に気付いた。最初は記入漏れだろうと思ったが、やがて一つの符丁に気付いた。名前のない子供、ただ赤子とのみ記される子供が捧げられた儀式の後には、必ず王族やそれに近しい身分の高い家の子供の誕生を祝う儀式が執り行われている。それに気付いたライカはある予想を立て、それを裏付けるために記録を丹念にたどり直していた。
「ライクァルーチェ」
 集中していたところへ不意に名を呼ばれ、ライカはびくりと肩を震わせた。はずみで落ちそうになった肩かけを慌てて引き寄せ、声の主を見上げる。初老の神官が穏やかに彼女を見下ろしていた。
「ジェナル神官……」
 何か御用でもと立ち上がりかけるライカをジェナルは手で制した。
「近ごろ、そなたが沈み込んでいると聞いてね。気になっていたのだよ」
「お心を患わせてしまい申し訳ありません」
「謝ることはない。何か悩みがあるのならば、私でよければ相談に乗ろう」
 昔と変わらぬ真摯で慈愛に満ちた表情にライカは泣きたくなったが、それも一瞬のことだった。
「あの騎士殿のことかね?」
 何のことですかととっさに言い返しそうになったが、どうにかライカはその言葉をのみこんだ。
「近ごろ姿を見せぬという話だが…」
「あの騎士とは関係ありませんっ」
 とっさに言い返したライカは、ちょっと待ってくださいと頭を抱えたくなった。
 そのような考えを持つのは、おそらくジェナル神官だけではない。ライカの周辺にいる人々は皆同じように考えているのだろう。
 すなわち、ライカは恋人に去られて落ち込んでいる、と。その恋人というのは、どこをどう間違えればそんなことになるのか分からないが、オルトである。
 流れ者の騎士と女神官の恋。そんなものがいつ成立したのか知らぬが、何やら妙な期待を受けていることはライカも承知していた。しかし、オルトがいなくなれば、それらも自然に消えるものと思っていたのだ。
 よもや、それがこんな形で新たな憶測を呼ぶことになろうとは。
 心配そうに見詰める神官にライカは引きつった笑顔を返した。
「魔法力について、少し思うところがあっただけです」
 ライカが有り余る魔法力を使うことに迷いを抱いていることは、彼も知っていることだった。
「無理することはないのだよ」
 ライカは別の意味で泣きたくなった。これも運命の神が与えた試練だろうか。
 心の中で、ライカは神々に許しを請うた。
「私は大丈夫です。彼とはしばらく会えないだけで……約束しましたから」
 恥じらうようにライカは目を伏せた。敬愛する神官の目を見たまま嘘はつけない。
「私は彼を信じてます」
 心優しい神官にこれ以上心配をかけぬために、理性を総動員して芝居を打ったライカはうつむいたまま、どうか嘘と見抜かれませんようにとひたすら願っていた。
「……私も信じましょう」
 穏やかな声で言ってほほ笑み、神官は子供の時のように優しくライカの頭を撫でた。
「そなたに神々の祝福がありますように」
 ライカは痛む良心を抱えながら、ゆったりした足取りで神官が書庫を出て行くのを見送った。ふつふつと怒りが沸いて来る。
 あの馬鹿男のせいでっ!
 今度あったらただじゃおかないと思ってすぐにライカは矛盾に気付いた。
 自分は二度とあの男に顔を見せるなと言ってある。嘘偽りのない心からの言葉だったのだが、この怒りの矛先をどこに向けるべきかとなると、オルトしかない。
「……これもやり場のない怒りというのかしら?」
 ライカのつぶやきに答える者はいなかった。


 森緑王国の王都には貴族の屋敷が立ち並ぶ地区がある。王の許可を受けた者のみが王都内に屋敷をかまえることができるのだが、その屋敷の中には持主が失脚して空き家となり、王家の所有となっているものが幾つかあった。そのうちの一つを、王の軍事顧問は与えられ、拠点として使用していた。
 その夜、屋敷に帰った彼は何か妙な気配を感じた。広い屋敷を維持するために王によって派遣されている使用人達の間に流れる空気が違う。何か言いたいことでもあるのかと、目を向ければ、慌てて目をそらす。何があったのかと眉をひそめつつ、自室の扉の前まで来た彼は足を止めた。部屋の中に何者かがいる。その何者かは騎士であり、更に、その気配には覚えがあった。
「何の用だ」
 扉を開けると同時にそう言い放った若者は思い切り顔をしかめた。
「待ってたわ」
 派手な化粧を施し、襟ぐりの深い挑発的な衣服をまとった、一目で娼婦と思われる姿をした女が椅子に腰掛けて艶然と笑みを浮かべている。
 エルードが溜息をつきそうになりながら、後ろ手に扉を閉めると、女は立ち上がって彼に抱きついてきた。
「……監視は?」
 耳元に南方語でささやく。騎士でも聞き取りにくいほどの小声だ。
「目だけだ」
 応えると、首に手を回したまま、女は上半身だけを離してにんまりと笑った。
「じゃ、明かり消してよ」
「何しに来た、エセル」
「わかってんじゃないの?」
 邪険にならぬよう注意しながら、腕をふりほどき、エルードはあごをしゃくった。
「寝室は向こうだ」
「待ってるわ」
 ひらひらと手を振って、明かりのない部屋にエセルは消えた。
 邪魔をする気なら、今すぐ排除せねばならないが、あれの性格を考えると、その必要はないだろう。邪魔をするなら、姿を現さずにいきなり邪魔をする。存在を知られれば、ある程度、行動を予測されると分かっているからだ。
 エルードは上着を脱ぐと、明かりを消し、続きの寝室へ入った。
「使用人の教育、なってないんじゃない?不審な人間をあっさりと主の部屋に通すなんてさ」
 低い位置から声が聞こえる。エセルはさっさと寝台に転がり込んだらしい。
「俺に会いに来た奴は皆通すように言ってある。何を取り引きしたいんだ?」
 寝台に腰をおろし、エルードは暗闇に目をこらした。
 この暗さならば、監視者も見ることはできないだろう。エセルが身動きしたはずみに寝台がきしんだ。
「私を雇ってよ。エルードが王の命を守りたいっていうんなら、邪魔するかもしれないけど、そうでなかったら邪魔にはならない」
「王の命を狙っているのか」
「王には会っただろ?それなら、見当つかない?」
「……他の人間ならともかく、お前が恨みで行動するとは思えん」
 エセルの表情は全く見えない。だが、唇の端を吊り上げて笑っていることだろう。
「ま、確かに、血のつながりがあろうがなかろうが、そんなことは関係ないんだけどね」
「女王の命令でも受けたか」
 女王は敵国の王を暗殺して来いとくらい言い兼ねない人物だ。そして、それを引き受けそうな騎士のなかの一人がエセルだ。
「いや。私は南陽王国の騎士じゃない。……ただ鬱陶しいんだ」
「何が」
「夢を見るんだよ。昔から、時々だけど、繰り返し同じ夢を。その夢のなかで、私は私とよく似た男と戦っている。勝敗は分からない。ただ戦うだけ。物心ついた時には、その夢を見てた」
 本当に鬱陶しいんだともう一度エセルは繰り返し、エルードは頷いた。エセルは何であれ束縛を嫌う。それが自ら選んだものでない限り。
「決着をつけたいわけか」
「そう。これが先見だとすれば、終わらせた後に同じ夢を見ることはないだろうと思ってさ」
 相手が死のうが、自分が死のうが、終わることは確かだろう。生き延びたエセルが男を殺したことを悔やんで、夢にうなされるなんてことはないはずだ。
 エルードはエセルを疑うことはしなかった。エセルが本気で人を騙すつもりで嘘をつく時は相手に一切疑いを持たせない嘘をつく。少しの間、考えてからエルードは口を開いた。
「それで、何故、俺の部隊に入りたがる?」
「王に近づく機会は南の軍にいるより多いだろ?」
 それに、と薄く笑う気配がする。
「エルードが王を守るために動くとは思えない」
 だから、断る理由はないはずだと言外に匂わせる。
 エルードなら、わざと王を窮地に陥らせるくらいのことはするだろうとでも言いたげだ。
「……いいだろう。取引の材料は?」
「暁王国将軍の息子。まだエルードは王の信用がいるだろ?南陽王国と通じている間者として、あれを王に売り渡せば、多少なりと信用を得られるはず。あの容姿じゃ将軍と無関係だって言ったところで無駄だし。暁王国と南陽王国は裏で手を結んでいると匂わせて、更に女王宛の書簡なんか握らせておけば、ますますうってつけ。おまけにオルト殿と一緒に行動していたんだから、疑いを晴らす方が難しい」
 すらすらと語る口ぶりは明らかに暁王国将軍の息子をはめることを楽しんでいる。
「……あれを遣したのは、お前か」
 赤毛の少年を思い出しながらエルードはつぶやいた。父親程のふてぶてしさはないが、自分に備わる高い能力を思うように扱うだけの自信は持ち合わせている騎士だ。
 暁王国の、しかもあの将軍のもとに滞在していたエセルがその息子と面識があっても不思議ではない。
「そうだよ。あんなのに近くをうろつかれたくないだろ?」
「ずっとこの地にいるとは限らない」
「ずっといるよ。私がここにいるんだから」
 エルードはその言葉に厭な予感を覚えた。
 確かあれは何か妙なことを……惚れた女を追って来たとかなんとか言っていなかったか。
 聞かない方がいいと思いつつも、エルードはつい理由を確認してしまった。
「どうして」
「私に惚れてるんだってさ」
 今にも笑いだしそうな声でエセルは答えた。
 予想通りだ。
 あれの父親とエセルは気が合う様子だったから、その息子がエセルを気にいってもおかしくないかもしれない。
 かわいそうな奴だとエルードは赤毛の少年に憐憫の情を覚えた。
 エセルと言えば、自分に惚れているという人間をこれ幸いとばかりに利用して良心の呵責も覚えないような人間だ。そんな性格だということを知らずに惚れたというのならば、随分、迂闊だとしか言えない。
 だが、それもこれも、こんな女を好きになった本人の責任だ。
「……ここで断れば、そいつを引き込んで俺の迷惑を顧みず、好きに行動するというわけか」
「実際にはやらないよ」
 笑いを含んだ声でエセルは応じた。
 実行しないというのは、自分が断る筈がないからだ。
 事実、エセル一人ならまだしも、あの少年まで加わったら、対処しかねる。
「いいだろう。だが、邪魔をしたなら即座にたたき出す」
「了解」
 言ってエセルはあくびをした。緊張感など全く持ち合わせていないらしい。
 今なら殺れるなとエルードはふと思ったが、殺す理由もない。
「一眠りさせてよ。こんな恰好で来たからには早く帰るとあやしまれるし」
 返事を聞かぬうちから、エセルはもぞもぞと毛布の下にもぐりこんでいる。
「ずうずうしくも寝台で眠るつもりか」
「一緒に寝てもかまわないけど?」
「断る。俺はユリクのように蹴飛ばされても目が覚めないほど眠りが深くない」
 上掛けを引きはがし、それにくるまって、エルードは寝台の脇に座り込んだ。
「夜明け前には起こすぞ」
 エセルに自分で目を覚ませと言うほど、エルードは馬鹿ではなかった。エセルの寝起きの悪さはよく知っている。騎士見習い時代、エセルはいつも幼なじみの手で寝床から引きずり出されていた。
「ん−」
 曖昧なくぐもった返事をよこしたところを見ると、頭からすっぽりと毛布を被って、すでに半分眠りかけているらしい。寝付きは悪くないのに、寝起きが悪いというのは不可解だ。
 ……あの男も実は寝起きが悪いのだろうか。
 怜悧な印象を与える男の顔を思い出し、似合わないと心の中でつぶやく。
 エセルとあの王は確かに似ている。
 容姿だけではない。ためらわず、大胆に行動するところも同じ、容赦のないところも同じだ。はた迷惑な存在という点でも非常によく似ている。
 だが……。
 エルードは目を閉じた。
 どちらも迷惑な存在であることにかわりないが、迷惑のかけ方が違う。少なくとも、何も知らない無関係な人間を巻き込むことをエセルはよしとしない。
 彼らは似ていて非なる存在だ。
 何が二人に違いをもたらしたのだろうかと考えながら、エルードは浅い眠りに落ちていった。