女王と騎士

第三部 夢と現-百騎夜行編- (8)

 森神を祀る祭壇の上には艶やかな緑の葉を茂らせた枝が置かれていた。新年を迎えるにあたって、祭壇を清めるために用いられた聖木の枝だ。
 何かの光が瞬いた。
 祭壇の下に転がった黄金の杯が光を反射したのだ。杯からこぼれた液体が石の床と硬直した手を濡らしていた。
 磨かれた床の上を影がゆっくりと動いた。
 光が倒れた男の顔を照らす。
 紫に変色した唇の端から一筋の血が流れていた。
 虚ろに見開かれた瞳は鮮やかな緑。
 厚手の外衣をまとった人物が死者を見下ろし、ゆっくりと笑みを刻んだ。
 嗤う男は死者と同じ顔をしていた。

 ライカは毛布を握り締めて跳ね起きた。
 暁闇のこもる空間はしんと静まり返っていた。
 心臓がどくどくと脈打つ音が耳大きく響く。
 真冬だというのに全身がじっとりと汗ばんでいた。
 自分を落ち着かせるために、ライカは自分の体を抱き締めた。
 心臓をわしづかみにされたような恐怖が全身を満たしている。
 ただの悪夢ではない。
 自分が見たのは、いつの時代のことかは分からぬが、過去に現実に起きたことなのだ。しかも、今、自分がいるこの森神殿で。
 この神殿には昨日到着したばかりだったが、数年間に渡り、この場所で暮らしていたことがあるため、毎日欠かさず祈祷を捧げていた祭壇をライカが見まちがう筈がなかった。
 そして、何より黄金の杯を自分の手に取って磨いたことがあったのだ。
 黄金の杯は、森神殿の頂点に立つ国王が特別な儀式の際に用いるものだった。
 ライカは両手で顔を覆った。
 …ただの夢であればよいのに。
 夢であれば、これほどまでに恐れることはない。
 新年の夜明けを告げる鐘はまだ聞こえて来なかった。


 深夜、王都の南側にある職人通りはひっそりと静まり返っていた。西側の歓楽街ならば、いくら一年最後の夜でも人通りはあるだろうが、この周辺では普段でも夜になると人気はなくなるものだ。そこを彼はゆっくりと歩いていた。誰かがその姿を見かけても特に不審には思わなかっただろう。王都警備隊の巡回は毎夜欠かさず行われるものだからだ。そして、彼が職人達の寝起きする下宿屋に入り、やや経ってから出て来たのを見ていた者はいなかった。彼は建物を出て数歩歩いたところで足をとめ、天を見上げた。
「…すべてを見ていたのは月神だけか」
 皮肉げに呟き、彼は立ち去った。
 月は人知れず冥府の女神に招きを受けた職人の亡きがらをひっそりと見守っていた。


 新年を迎えたというのに、その老婆はふさぎこんでいた。
 開け放たれた窓から聞こえて来る子供達の笑い声も耳に届いていないのか、じっと考え込む表情で椅子に座ったまま動こうとしない。
 彼女は「さがしもの」を生業にしているが、その請け負った仕事に関して気掛かりなことがあったのだ。
 冬のはじめ、彼女はあるものを探す仕事を引き受けた。かなり難しい仕事ではあったが、年を越す前にはやり遂げていた。依頼主は約束通りの報酬を支払い、何の問題もなく、仕事は終わった。問題が生じたのはその後のことである。
 彼女が捜し出したものがあるはずの場所で続けて人死にが出た。
 初めのうちは、単なる偶然だろうと思っていた。
 だが、三度、同じことが続くと、偶然では片付けられなくなった。
 仕事が終わった以上、何が起ころうと彼女には関わりないことだと何度も自分に言い聞かせたのだが、どうも頭から離れない。
 長い人生を生き、同じ仕事を続けてきたなかで、同じようなことは今までにもあった。その度に、彼女は目と耳をふさいで来た。それゆえ、この年まで生きながらえることができた。
 今回、同じようにできないのは、依頼主がそのようなことをする人間には見えなかったという点にあるのだろう。
 老いが自分の目を曇らせてしまったのか。
 それなら、それでよいだろう。
 だが、あの若い依頼主がやむにやまれぬ事情で彼の手を血に染めたのであれば、彼が哀れだ。
 彼のなかには確かに何らかの決意が見られた。
 老婆は重い溜息をついた。
 忘れればいいのだ、今までのように。
 だが、いつまでも、その記憶は彼女の心に重くのしかかっていた。


 王都警備隊の若手が集まる居酒屋にエセルがひょっこり姿を現したのは三日間にわたる神殿での新年祭が終わった翌日だった。
「お前、こんなとこにいていいのかよ?後片付けとかあるんじゃないのか?」
 常識的な意見を述べた若者にエセルはひらひらと手を振った。
「三日間、うっとうしい恰好して見世物になってたんだ。後片付けは免除してもらったに決まってるじゃん」
 男物の服を纏って酒をかっくらうこの女騎士がつい昨日まで神殿で奉納舞いを捧げ、参拝客らを魅了していた女神官と同一人物だと気付く人間はほとんどいないだろう。それはまた日頃のエセルを知る人間にとっても信じがたい事実だった。
「おまけに、新年早々、中堅所の神官がぽっくり逝っちゃってさぁ。儀式の手順が狂って結構、大変だったんだからね」
 どうせ死ぬなら、祭りが終わってから死ねばいいのにと実に自分勝手なことを言いながらエセルはつまみに手を伸ばした。
「へぇ。なんていう神官だ?」
「ルークル神官だったっけ?」
 頭の薄い中年男だったけど、と葬儀の様子を思い出しながらエセルは応えた。
「えっ!あのルークル神官が?」
 若者達が一斉に目を見開く。
「あれ?知り合い?」
 言ったエセルに皆の白い目が注がれた。
「半年くらい、俺達の教師やってただろ」
 王宮において騎士見習い達は武術以外にも教育を受けることになっており、教師役にはしばしば神官が登用されていた。
「お前は聖典の時間はさぼっているか、眠っているかのどちらかだったもんな」
「結構、面白い話を聞かせてくれたよな」
 若者達が口々に言うが、エセルの記憶は刺激されなかった。言われてみれば、なんとなく、そんな教師がいたような気もするのだが、確信は持てない。聖典の時間など、エセルにとっては無駄なものとして認識されていた。
「面白い話してたんなら、覚えていそうなもんだけど」
「お前は聞く以前に熟睡してただろうが」
「他の国の話もよく聞かせてくれたよな。こっちで沈む太陽に向かって罪を告白するのと同じように、他の国では森の中で木のうろに向かって罪を告白する習慣があるとか」
 エセルは片方の眉を軽く上げた。
「…よく覚えてるもんだね、アイン。よっぽど、告白しなくちゃならないような『罪』がいっぱいあったんだ」
「お前にだけは言われたくないっ」
 そんな若者の抗議には耳を貸さず、エセルは全く別のことを考えていた。
 新年を迎える前夜、知る者の少ない隠し通路を使って神殿に侵入した者がいた。侵入者の一人は捕えられたが、その仲間は逃げた。入念に下調べをしていたらしく、見事な逃げっぷりだったとトーヴァは言っていた。
 だが、隠し通路を完全に把握するまで侵入を繰り返すことが可能だったとは思えない。要所要所に神官長が以前から「網」を張っていたのだ。
 何者かの手引があったのだろうというのが、神官長とトーヴァの一致した意見だった。それは間違っていないだろうとエセルも思っている。
 死んだ神官は隠し通路の存在を知る人間の一人だった。
 もっとも、ただそれだけでは彼が手引したのだと決めることはできない。
 だが。
 木のうろに向かって罪を告白するという習慣。
 それは緑森王国のように森神信仰が盛んな地域に根付いているものだ。
 問題の神官の周辺を調べてみる価値はあるだろう。
 エセルは隣の酒杯に手を伸ばすと一気に煽った。
「ああっ、俺の酒っ!」
「ぼけっとしてるからだよ」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐアインと悪びれた様子のないエセルとを眺めていた若者達は揃って溜息をついた。
「…全然、変わってないよな」
「不思議なくらいにな」
「そう言えば、エルード、お前も早々にあいつと派手な喧嘩したんだろ?」
 返事はない。
 話をふられた若者は自分には関係ないとばかりの顔で酒を飲んでいた
 若者達は顔を見合わせ、仕方がないとばかりに肩を竦めた。
 もともと口数は少ない上、天敵が同席しているとあってエルードは機嫌が悪いようだ。
 刺激するのを止めて彼らは酒を飲み始めた。
 やがて、騒ぎ続ける仲間達を置いて、エルードはひっそりと席を立った。
 その暗緑の瞳の底に冷たい光が沈んでいたことに気付いた者はいなかった。

 年始めの王宮は連夜宴が続く。
 各地から貴族達が次々に新年の挨拶にやって来るのだ。
 その宴の席で人々の注目を集めているのは王妹と彼女を囲む二人の青年だ。
 一人は宵闇公国の第二公子、一人は第五騎士団副団長。
 趣は異なるが、それぞれに魅力のある青年達だ。
 王妹も今宵ばかりは盛装に身を包み、女王にも劣らぬ華やぎを醸し出していた。その彼女は極親しい様子で青年達と言葉を交わしている。
 その様に、噂は本当だったのかと、ある者は落胆し、またある者は次の手を考え始めていた。
「陛下、そのように見るからに人の悪い笑顔はしまってください」
 貴族からの贈り物の品書きを運んできた青年が小声で注意した。
「笑っておったか?」
 扇子を広げ、口元を隠して女王は尋ね返した。
「はい。楽しまれるのは結構ですが、威厳は保っていただかねば」
 どうせなら、とヴェルシュは何でもないことのように付け加えた。
「御夫君にまとわりつく虫に睨みを効かせてはいかがです?」
 はっとして女王が夫の姿を探すと、銀髪の青年は三十代と思われる貴婦人を相手に何やら楽しそうに話をしていた。
「あの厚化粧の女は何者だ?」
 不快を露わに女王は問いただした。
「先月亡くなった北部の辺境貴族の夫人です。自身の財産を守るべく奔走しております。なかなか有能な女性ですよ」
「それでクルスをたらしこもうとしているのか」
「違います。取引です。ですが、それがばれては困りますので、陛下は知らぬ顔で嫉妬を燃やしてくださって結構です」
「そう言われると、嫉妬のし甲斐がないのだが」
「では、よいことを教えて差し上げましょう。クルス・アディン殿は年上の女性に弱いですよ」
 母親ほどに年の離れた女性に限ってという条件を敢えて省き、思い切りよく夫婦の間に波風を立ててヴェルシュは立ち去った。
 彼の思惑通り、残された女王は不快の様子を隠そうともせず、夫とその話し相手を睨み付けていた。


 初月が過ぎ、ようやく平常を取り戻した王宮は静かな午後を迎えていた。
 近衛騎士のフィル・ファイサールは女王の護衛を交替すべく、明るい中庭を突っ切って、女王のいる執務室に向かっていた。
 本日の予定では女王はこれから「魂の導き手」と語らうことになっている。あの女神官との語らいによって女王の魂に平穏が訪れるとは思えないが、毎月恒例の行事である。
 フィルは銀髪の人物を視界の隅に認めて足を止めた。
 南陽王国の王宮において、銀髪の青年の姿はすっかり見慣れたものとなっている。だが、この銀髪の主は彼ではない。
 神官服を纏った細身の少年は困ったような顔で中庭に立ち尽くしていた。おそらく、氷晶王国から派遣された魔法士の一人だろう。ユリクに聞いたところ、神官見習いも含まれているということだった。
「どうかしましたか?」
 念のために大陸共通語で声をかけると少年はゆっくりと灰緑の瞳を向けた。
「連れとはぐれてしまいまして。トーヴァ女神官はどこにおられるか、おわかりになりますか?」
 微かに異国風の抑揚があるが、流暢な南陽王国語で少年は応じた。
「トーヴァ女神官なら、これから陛下の御前に上がるはずですが…案内しましょうか?」
 少年はほっとした顔になった。
「お願いします」
「では、こちらへ」
 先に立ってフィルは歩き出した。
 そう言えば、王宮に魔法士を入れるとヴェルシュ殿がおっしゃっていたな。
 多分、この少年がその魔法士なのだろう。
 穏やかで浮世離れした印象があるが、クルス・アディンという例がある。外見で判断してはならない。
 そんなことを思いながら歩いていると、ふと気配が途切れた。
 振り向くと、少年はいなかった。
 一体、どこへと慌てて探すと、少し引き返したところで、少年は足を止め、東側の建物を見上げていた。
「…なにか?」
 声をかけると、少年は慌てて振り返った。
「すみません、気になる魔法構造があったものですから」
 少年が女神官とはぐれた理由が分かったような気がする。
 小走りになったところ、少年は裾を踏んで転びかけた。
 騎士の反射神経は優れている。
 そのため、少年が転ぶことは回避された。
 片手で体を支えてやりながら、フィルは妙な違和感を感じた。
「すみません」
 恐縮して神官見習いが謝罪する。
「…いえ」
 背は高い。
 おそらく、十五才になるかどうかだろうが、一般的な南陽王国の成人男性よりもまだ高い。
 再び歩き出しながら、フィルは相手に気どられぬように銀髪の人物を観察した。
 クルス・アディン殿の例があるとはいえ、男にしては繊細な顔立ちだ。
 ついでにエセルという例も身近にある。
 ひょっとすると、この「少年」、少年ではなく、少女かもしれない。
 ひどく気になったが、直接、本人に尋ねるような不躾な真似はできない。
 そして何よりも、もし、そんな質問を女の子に向かって発したということが母親の耳に入った日には、どんな目にあわされることか。
 女王からも何を言われるか知れたものではない。
 この王宮の女性陣だけは敵に回してはいけないことをフィルはよく知っていた。


 緑森王国の都は深い森の中に忽然と姿を現す。
 小高い丘の上に位置する城を中心に広がった街は壁によって囲まれ、その市壁を出るとすぐに森が始まっているのだ。森神信仰の深いこの地では樹木を神殿の許可なく伐採することが禁じられているため、長い年月の間、都は拡大することなく一定の規模を保ち続けていた。
「へぇ、ここが王都なんだ」
 しけたところだなぁという赤毛の少年の感想にオルトは頷いた。
「正確に言えば、王都のひとつ、だ。この旧都とすぐ北の新都の二つが、この国では王都の機能を分担してんのさ。こっちが精神の中心地で、あっちが政治と商業の中心地だって言われてんな。国王もこの二つを年中行き来してるって話だ」
「ふーん。で、どうするんだ?」
 足をぶらぶらさせながら、ファギルは南陽王国の騎士に尋ねた。
 脱獄仲間となってから一月余り。旅慣れた青年は人にあまり知られていない裏道やらに通じていて、なかなか頼りになる。おかげで、無事に追っ手を振り切ることができた。
「まずは神殿参りにでも行ってみようぜ」
「げっ、神殿〜?」
 悪さをしてばかりだと神殿に入れるよと母親に脅されながら育ったファギルには神殿に関していい思い出はない。おっかない顔のじじい達がいて、説教をくらわせる場所というのが彼の神殿に対する認識だ。
「お前、エセル探してるんじゃなかったのか?」
「そうだけど?」
「あいつが潜り込みそうな場所って言ったら、神殿だろーが」
「…神官見習いの資格を持っているって聞いたことはあったけど、あれ、冗談じゃなかったんだな」
 なんとも複雑そうな顔でつぶやく。
「他の国じゃどうだか知らねぇけどな、南陽王国に限っちゃあ、神官の資格ってのは人格とは全く無関係に与えられていると思うぜ」
 言うとオルトは枝を伝って木を下り始めた。
 この二人、見晴らしのよい大木の上から、都の様子を眺めていたのである。
「…ま、この国にも、おっかなそうな女神官はいたけどな」
 そんなオルトのつぶやきはファギルの耳には届かなかった。
 少年はもう一度、都を眺めた。
 白っぽい石造りの都市は冬枯れの森のなか妙に霞んで見えた。
「…なんか、やばそうな感じがするんだよなぁ。それだけ、戦が近いってことか」
 本能的に危険を察知するのは父親譲りの才能か、この手の勘が外れたことはない。
 ついでに、危険と知りつつ、目的に向かって突き進むという姿勢も父親譲りだろう。これを生みの母は一言、「馬鹿」と評し、義母は「はた迷惑な性向」と評した。
「ま、せいぜい、死なないように頑張るか」
 少年はひょいと枝にぶらさがると、猿のような素早さで木を下りて行った。