女王と騎士

騎士の日常〜女神官編〜

 神殿の朝は早い。
 夜明け前には神官達は起き出して祈祷の準備を始める。彼らの崇める陽の女神を迎えるのに遅れてはならない。
 王都の西にある小神殿を預かる女神官はすがすがしい朝を迎えていた。昨夜、彼女とともに深酒をした男達が見たら、更にやけ酒を煽りたくなるほどに爽やかな顔で小さな祭壇の手入れをしていた。
 この小神殿の祭壇にまつられているのは陽の女神と大地の女神と冥府の女神、この国の民が暮らしを営むのに欠かせぬ三人の女神であった。陽の女神は彼らの守護神であり、日々の暮らしを空の高みから見守る。大地の女神は誕生と婚姻を司り、冥府の女神はその名のとおり死を司る。いずれも避けては通れぬ神々である。
 太陽が上る頃には聖堂には神官と神官見習い達の祈祷の声が響いていた。
 この日は朝から、昨夜生まれた赤子を連れた若い男が赤子へ祝福を受けるために神殿を訪れた。小さな町や村ならば神官が家に赴くのであるが、人口の多い王都では赤子を神殿に連れてくることが父親になった者の最初の仕事である。神殿長でもある女神官は自ら赤子を清め、祝福を与えた。健康そうな赤子は冷たい水をかけられて、ぎゃあぎゃあと非難がましく泣いたが、その父親は彼の悲しみに同情することはなく、嬉しそうに彼を連れて家に帰って行った。
 その様を見送ったトーヴァはうちの赤子達はどうしているだろうと育児室へと赴いた。南陽王国は豊かな国で王都も繁栄しているが、それでも貧民がいなくなることはなく、そして、捨子もなくなることはない。本神殿から、末端の小神殿まで育児室は常にふさがっていると言ってもよい。
 育児室では世話係の助神官と神殿で育てられている子供達が赤子達をあやしていた。
 助神官は聖職者ではなく、俗人の身分のままに神殿において神に仕えることを選んだ人間だ。神官位を得るには、まず聖典を読むために学問が要るため、一般的な暮らしを送って来た者が人生の途中で聖職者に身を転じることは難しい。読み書きに困らぬのは貴族を含めた富裕な上層民、及び書記を生業にする者にほぼ限られた。
 助神官の身分は正神官に比べると低くおかれるが、その存在がなければ神殿はうまく機能しないことだろう。彼らは神殿において様々な雑事を担当していた。
「赤子の数が減ったようだが?」
 素早く目で数えた女神官が年配の助神官に問うと、嬉しそうに顔をほころばせた。
「昨日、西通りの靴職人の家にもらわれていったんですよ、トーヴァ様」
「それは良かった」
「また、ゆうべは帰りが遅かったんですね」
 咎めるような口調で赤子をあやしていた少女が言った。近いうちに神官見習いになる少女は生真面目で、神殿長たる女神官の「放蕩ぶり」を快く思ってはいない。
「夜こそ陽の女神の目が届かぬのを良いことに道を外れる者が増えるのだから、いたしかたあるまい」
 少女はまだ何か文句を言いたそうだったが、結局は口を閉ざした。言っても無駄だと分かっているのだろう。
 女神官は習練室に行って年長の子供達の勉強をみた後、彼女が日課としている周辺地域の見回りに出掛けた。

 顔の知られた女神官が通りを歩くとあちこちから声がかかる。中には彼女の姿を見た途端にこそこそ逃げ出す男もおり、そういった連中は逆に女神官の注意を引き、問い詰められて、悪事を告白するはめになる。説教をくらって解放されるか、痛い目に遭わされて警備隊に突き出されるかはその悪事の内容によって異なる。時としては行方知れずになる極悪人もいるという噂だ。
 その日、女神官の顔を見て逃げ出したのは犯罪者ではなく、最近、近衛騎士に取り立てられたばかりの若者だった。女王即位に伴い、近衛騎士団は解体され、もはや「騎士団」とは言えぬ小集団に再編成されていた。女王の希望のもと、「腕よし顔よし」の騎士達が揃えられたと言われている。その近衛騎士隊に所属するのだから、この若者も相当の腕利きと見て良いのだが、今の姿を見る限り、とてもそうは見えない。
「なんで追いかけて来るんだよっ!俺は何もしてねぇぞっ」
 威勢良く口ではまくしたてるものの、腰が引けている。犬であれば、唸り声を上げながらも、しっぽが垂れている状態だ。
「おぬしが逃げるからだ」
「なんだよ、それはっ」
 ふふふと余裕の笑みを浮かべて女神官はじわじわと若者を壁際に追い詰めた。
「知らぬのか?猟犬というのは逃げるものを追いかける。私も言わば神の猟犬。迷える魂を追いかけて正道に引き戻すのが我が使命と心得ておる」
「俺のことはいいから、迷わせておいてくれっ」
 壁にへばりついて若者が叫ぶ。
「ほう?迷っておるのだな?いかなる愚か者であろうと、とりあえずは救いの手を差し延べるのが聖職者の務め。さあ、罪を告白するが良い」
 胸倉をつかんでぐいぐいと締め上げる。
「やめてくれぇ〜っ」
 聞き苦しい男の悲鳴ではなく、細い女の悲鳴を耳にして、女神官は動きを止めた。
「お遊びはこれまでだな。精進いたせよ」
 くるりと踵を返し、颯爽と女神官は駆け去った。
 ずるずると若者は壁を背にへたりこんだ。
「畜生っ、暴力魔っ、破壊女神官!警備隊に訴えてやるぞーっ」
 まさしく負け犬の遠吠えである。
 しかし、訴えたところで、警備隊が聞き入れるとは思えなかった。誰だって我身がかわいいのである。果して、女神官を阻むことができる者がこの世にいるのか、若い近衛騎士には見当もつかなかった。

 軽々と木の葉のごとく男の体が宙に舞った。
「か弱い婦女子に手を上げるとは言語道断。反省の機会を与えてやるから、有り難く思え」
 か弱くない婦女子は冷然と男を見下ろしながら言い放った。
「…金で買った女をどうしようが俺の勝手だ」
 常人ならば、全身打撲で動けぬところだが、騎士能力を備えていた男は憎々しげに言って起き上がった。女神官の後ろでは顔色の悪い痩せた女ががたがたと激しく身を震わせている。
「ほう?口の利き方も知らぬと見える」
 剣を抜いて踊りかかった男の攻撃を半歩動いただけで難無くかわした女神官は強烈な手刀をその首にたたき込んだ。男はどさりと敷石の欠けた路上に倒れ、ぴくりとも動かなくなった。女神官は冷やかな青い瞳でその男を見据えた後、女を振り返った。
「この男は私が警備隊に引き渡しておく。そなたは安心して帰るがよい。この男がそなたを悩ますことは二度とないゆえ、な」
 優しく声をかけると、女ははっとしたように顔を上げ、何度も女神官に頭を下げてから立ち去った。痛ましげに目を細め、女神官は女の後ろ姿を見送った。
 彼女は裏通りで客を取る最下層の娼婦だった。正式な認可を受けた店で働いているわけではないために、いわば不法の存在だ。店が間に入らぬために利益はそのまま自分の懐に入るが、店の保護がないために金を踏み倒される可能性も高い。極めて危険度の高い商売だ。それでも、身を売って稼がねばならぬ事情が彼女達にはあるのだ。
 ゆっくりと息を吐いて、女神官は下へ視線を戻した。
「随分、血を吸ったものよな」
 鈍い光を放つ刀身にまとわりつく濁った気に不快そうに顔をしかめる。
「清めて売ればいくばくかの金になろう。その金で祈祷をほどこしてやるゆえ、安心して冥府を訪ねるが良いぞ」
 女神官の声が男の耳に届くことはなかった。
 その日の昼過ぎ、身元不明の死体が警備隊の詰所に届けられた。


 傾き始めた太陽の下、猫の子をつかむように襟首を女神官につかまれ、一人の子供が通りを引っ張られて行く。南陽王国では珍しい金茶の髪の子供は諦めたような顔をしながらも、油断なく女神官が手を緩める隙を狙っていた。それは女神官も承知していたので、手を緩めることはなかった。騎士能力を備えた子供は極めてすばしっこく、一度逃げたのを捕まえようとすれば、ひどく難儀することだろう。
「別に私一人が祈祷をさぼったからって、太陽が出て来なくなるわけじゃないじゃん」
「子供のうちから、そういう考えでいると、ろくな大人にならぬぞ。子供が親の稼業を手伝うように神殿で養われているおぬしが神殿の仕事を手伝うのは当然のこと」
 子供は本神殿で養われている孤児の一人であったが、騎士能力保持者とあって、何かとトーヴァは目をかけている。目をかけているというよりは、目を付けているというほうが正確かもしれない。騎士能力を持って生まれた人間は、その能力ゆえに人の道を踏み外し易いのだ。いたずら好きな子供は神官達の手を焼かせるが、今の所は、真っすぐとは言いかねるものの健やかに育っている。
「賭けで稼いだ金を神殿に寄付する方が有益じゃん?」
「寄付するのは大いに結構だが、まずはおぬしに課せられた義務を果たしてからだ」
「でもさ、祈祷なんかして、一体、何の役に立つのさ?」
「聖職者が祈るのを見れば、人々が安心する。それだけで十分であろう?人々が心安らかに暮らせるよう努力するのが聖職にある者の務めだ。そして、それこそが神殿の寄付への見返りだ。寄付で養われているそなたらが、そのお返しに祈祷するのは当然だ」
 お堅い神官が聞けば、こめかみを押えたであろう意見であるが、神殿育ちの子供はそれで納得したらしい。神々の存在を身近に感じたことのない子供には、こうした説明の方が余程腑に落ちるのだ。
「それなら、そう言ってくれりゃあいいのに。神官様達は魂の救いがどうのと小難しいことばかり言うんだ。ユリクみたいに頭が良くないんだから、分かるわけない」
 ユリクというのは同じ神殿育ちの少年で、神官達に目をかけられている優秀な頭脳を持っている。物静かで穏やかな少年は、始終騒ぎの元になる少女とは対照的な存在だが、不思議と仲は良かった。同じ騎士能力を持つということも関連していようが、それだけでもない。
「おぬしはおぬしなりの『解釈』を見付ければ良い。世の中には無駄に見える事が多いが、すべての人間が無駄だと言い切ることのできるものなど存在しない」
「それって、ユリクが言ってた、真実は人によって違うってことと同じようなもん?」
「ふむ?ユリクがそのようなことを申したのか?」
「うん。ある人物が良いことだと思ってなしたことが、全ての人間にとって『善』であるとは限らない、だったかな?ま、そーゆーことを言ってた」
 この少女、自分で言う程、頭がよくない訳では決してない。むしろ理解力は高いといえる。
「随分、難しいことを考えるのだな、ユリクは」
「私もそう思う。そんなことばっか考えてたら、何もできなくなるじゃん」
 どうやら、こちらの少女よりも、あちらの少年の方が余程危うい存在のようだ。一度、じっくり話してみるかと女神官は決心し、逃げ出そうとした少女の襟首をつかむ手の力をちょいと強めた。

 夕の祈祷に間に合うように、神殿の子供を本神殿まで送り届けた女神官はそのまま祈祷に参加した後、神殿を出た足で歓楽街に向かった。
 日が落ちて、ようやく賑わい始めた花街の通りを堂々と歩く聖職者はトーヴァくらいのものであろう。神殿上層部からは再三、注意を受けているのだが、トーヴァはこの「夜歩き」をやめるつもりはない。かつては即位前の女王を伴って夜の街を訪れたこともある。廷臣達からはこぞって非難を受けたが、自分がやがて治める国を見て回って何が悪いと王女に逆に食ってかかられ、更に、国王の口添えもあり、彼らは口を閉ざした。トーヴァ自身、数人の廷臣に馴染みの女を知っていると耳打ちしたことも効果があったのだろう。中には口をふさごうと、刺客を送り込んで来た愚か者もいたが、トーヴァは丁重にお礼をしてやった。今はこの女神官には手を出さぬ方が良いと知れ渡ったため、そのような類いのものに煩わされることはない。
 トーヴァは昨日とはまた別の居酒屋に足を踏み入れた。店の主がいらっしゃいと愛想よく声をかけ、顔なじみの石工達が自分達のテーブルへと手招きした。遠慮なく招きに応じてトーヴァは男達の間に座った。
 仕事中の失敗や夫婦喧嘩などについて他愛のない話をしながら酒を酌み交わし一日の疲れを癒す男達にまじり、酒を飲むこの時間がトーヴァは好きだった。だが、短いが楽しい時間を共有した後に、彼らを追い立てて、それぞれの家族のもとに帰すのも、トーヴァの役目だった。帰れる家を持つということは幸せなことだ。
 飲み過ぎて足元のおぼつかない男を家まで送ってやった後、トーヴァは更に闇の濃い場所に向かった。供もつけずに夜歩きする女神官など、普通ならばいいカモだと、すぐにでも襲われるはずだが、トーヴァの顔は知れ渡っていた。
「よぉ、女神官さん、いい薬があるよ」
 路地裏から怪しげな薬売りが声をかける。
「ほう?新しいものか?」
「新しいとも。都に入って来たばかりさ」
 にたにた笑いながら年齢不詳の男が袋を振る。女神官はすっと近付いて男に銀貨を差し出した。
「これで足りるか?」
「もう一枚」
「良かろう」
 男は素早く銀貨を懐に収め、小声でささやいた。
「『かずら亭』に騎士が入った。賞金首らしい」
「ほう?久しぶりに楽しめそうだな」
「ああ、ばっちりだ。賞金稼ぎの連中もくっついて来てるってことだがな」
「ふーむ、仕事を横取りするわけにはいかぬが」
「あいつらにはやれねぇよ」
 にたりと男が笑う。
「では、遠慮なくいただくか」
 女神官は薄く笑い、男から離れた。

 トーヴァが教えられた場所にたどり着くと、人だかりができていた。その人々の面に恐怖の色を認め、トーヴァは微かに眉を寄せた。脅えていないのは、二人の男だけだった。一人は昼間出会った顔なじみの若い近衛騎士オルトで、もう一人は更に若い、どこか見覚えのある騎士だった。
「やっぱ、ウェイ、お前って、すっげー便利」
 ばしばしと長身の若者の背をたたきながら、近衛騎士が笑う。彼らの足元には男の死体が転がり、血だまりをつくっていた。
 ああ、あれか。
 ようやく、トーヴァは若者のことを思い出した。
 王妹と一緒に育った、流れの騎士の息子で、近衛騎士に採用された男だ。王宮で一度、顔を合わせた時、かなりの手だれだという印象を与えられたが、間違いではなかったらしい。まだ十八歳かそこらのはずだが、この剣の冴えは恐ろしいほどだと一刀のもとに頸動脈を切られた死体を見遣りながらトーヴァは感嘆した。顔を改めるまでもなく、これが件の賞金首であることを確信していた。
 女神官の姿に気付いた男達が道をあける。トーヴァは死体に近付き、祈りの文句を口にした後、近衛騎士達に向き直った。
「千人殺し、赤熊のダーラフも、よもや、こんな死に方をするとは思わなかったであろうな」
「横取りすんのはなしだぜ」
 警戒の目を向けるオルトをトーヴァは鼻でせせら笑った。
「おぬしではあるまいに、そのようなせこい真似をするものか。おぬしこそ、手柄を横取りするわけではなかろうな?」
「俺はちゃんと先に取り決めしてんの。稼がせてやるから、半分よこせってな」
 なあ、と同意を求めるが、灰銀色の目を持つ若者は反応を示さなかった。
「半分?せいぜい、四分の一が妥当なところだ。…そもそも、オルト、おぬしは規約を知っておるのか?」
 ずずいと近付き、南陽王国所属騎士団共通の規約を耳元にささやく。
 騎士並び兵士の地位にある者が賞金首を捕えた場合、賞金は国庫に収められ、個人に対しては改めて特別報酬が下賜されるというものだ。その場合の特別報酬は当然というべきか、賞金より少額だ。
「あぁっ?どうして、そうなるんだよっ」
「そういう決まりだからだろうな」
 トーヴァはにやりと笑う。
「…で、いくらよこせって言うんだよ?」
 不満たらたらに、仕方なさそうにオルトが言い出す。
「おぬしは話が早くて助かる」
 それから二人は頭を寄せあって、交渉に入った。周囲の人々はしばらく呆れたような目を向けていたが、見物していても仕方ないので、散って行った。未練がましそうな顔をして様子を伺っていた賞金稼ぎ達もウェイの一瞥を受けて立ち去った。とてもでないが、横取りする気にはならなかったのである。
「仕方ない、そんじゃ、あんたが賞金交換所に死体を運ぶってことで三分の一ずつだ。ウェイ、それでいいか?」
 若者は頷いて、おもむろに口を開いた。
「俺の取り分は、そのまま神殿に寄付してくれ」
「ほう?良い心がけだな、感心、感心」
「なにーっ!それくらいなら俺によこせっ。お前は、稼いだ金で遊ぶなり、なんなりしようとは思わねぇのかっ?」
 理解できないとオルトが喚く。
「何のために、賞金首をやったんだよっ」
「…先方から突っ掛かって来たからだ」
 降り懸かった火の粉を払って何が悪いと言わんばかりの態度だ。
「そんじゃ、お前、俺が稼がせてやるって言った意味、全然、わかってなかったってことか?」
 ウェイは頷き、オルトは頭を抱えた。
「…ひょっとして、お前、意識して眼付けたわけでもないわけ?」
 再び首肯。
 目付きのよろしくない若者は睨むまでもなく、相手の闘争心を煽ったらしい。
「じゃ、なんで俺の誘いにのったわけ?」
「ちょっと酒場に付き合えと言ったのはオルトだろう」
「…わかんねぇ奴っ」
 オルトが頭を抱え込む。
 面白い。
 知らず知らず、トーヴァの口元に笑みがこぼれた。
 女王即位からわずか一カ月余、新顔の近衛騎士達に殊更注意を向けたことはなかったが、改めてトーヴァは興味を引かれた。
 流れの騎士の息子ということで生まれ育った境遇は似通っているはずなのに、オルトとは対照的な若者は無表情に騒ぎ立てる連れを見ていた。はっきりとは分からないが、なんとなく怪訝に思っている様子だ。彼らは多分、お互いさっぱり分からない奴だと思っているのだろう。
 しかし、ここで二人の奇妙なやりとりを見物していても仕方ない。
「私はこれを片付けて来るが、おぬしらはまだここにおるか?」
「んー?ああ、血ぐらい水で流しておかねぇと店のおやじに文句言われるし、今ので客も減っちまったから、その埋め合わせに飲んでいくさ」
「よし、私がおごってやろう」
「本当か?」
 疑ぐり深い目を向けるオルトの鼻先をぴしりと指ではじく。
「聖職にある者の言葉を疑うか?」
 鼻を押えて、オルトは何やらごにょごにょ言っていたが、機嫌を損ねて約束を違えられては困ると思ったのだろう、非難の言葉はどうにか飲み込んだ。
「では、待っておれ」
 死体のマントをその首にぐるりと巻き付けると、ひょいとトーヴァは死体を担ぎ、賞金交換所を兼ねている居酒屋に向かって歩き出した。確認に少々時間はかかるだろうが、赤熊のダーラフは特徴の多い男だ。オルト達が血を洗い流した後、一杯ひっかけている間に戻って来れるだろう。
 さて、ウェイとやらの酒量はいかほどのものかな。
 オルトいわく、罪のない男を酔い潰させて地獄の苦しみを与えることを喜びとしている女神官は大荷物にも関わらず軽い足取りで夜の街を抜けて行った。

 この男もたいがい懲りるということを知らぬものよな。
 おごりとあって、がんがんと酒杯を重ねたあげく、沈没した男の頭をばしばしとたたいて反応を見ながら、トーヴァは小さく笑った。うううっとオルトは呻き声を上げたが、目を覚ます気配はない。ひどい二日酔に悩まされることは明白だ。
 テーブルにつっぷしたオルトの隣では涼しい顔でウェイが酒杯を口に運んでいる。特に酒に強いというわけではない。度が過ぎないのだ。もっと飲めとすすめても、頭を振って断る。挑発しても乗って来ない。年は十八歳だというが、ひどく自制が効いている。無口だが、質問すれば答えるし、偏屈というわけでもない。
「私は数度しか言葉を交わしたことはないが、アシュリーズ様とは、おぬしから見てどんな方だ?」
 しばし考えた後に、ウェイは一言、言った。
「頑固者」
 アシュリーズが耳にすれば、どっちが!と食ってかかったことだろう。
 頑固かどうかは知らぬが強い意志を持つ娘だと、トーヴァも思っていた。女王とは双子であっても随分異なる性格と見て取ったが、易々と他人の言いなりにならぬところは似ていると言えるのかもしれない。流れの騎士の娘として、油断ならぬ人間と接して来た少女は牙を隠した廷臣達の甘言にも惑わされることはないだろう。
「おぬしはアシュリーズ様を女王にしてやろうとは思わぬか?」
 この言葉が余程意外だったのだろう、若者は妙なことを聞いたという顔になった。ウェイが表情を変えるのを見たのはトーヴァにはこれが初めてだった。
「女王が邪魔なのか?」
「いや。何故、そんなことを聞く?」
「俺にその話を持ちかけて来る連中は皆、女王を邪魔に思っていた」
「成程な。私の場合は単なる確認だ。陛下の邪魔になるものは始末せねばならぬからな」
「アシュリーズは王位など望まない。…その上でアシュリーズを邪魔にするという者がいるなら、俺が始末する」
 静かな声で何の気負いもなく言ってのける。
 トーヴァは苦笑をもらした。
 この若者はトーヴァでは彼に勝てぬことが分かっているのだ。剣だけならば互角だろう。あるいはトーヴァがわずかに上かも知れない。しかし、彼は魔法を使う。剣技が互角の騎士と魔法騎士が戦えば、勝つのは魔法騎士だ。
「おぬしを敵に回すほど、私は酔狂ではない。私は陛下には出来る限り幸せでいてもらいたいと思っておる。だから、アシュリーズ様に死なれてもらっては困る。…おぬしと同じだな」
 ウェイは軽く頷いた。彼はアシュリーズが幸せでいるために、女王に死なれては困ると思っているのだ。
 トーヴァにはそれさえ分かれば十分だった。
 もう何杯目かも覚えていない酒杯を空ける。
 店の中の客は、もう随分と減っていた。
「帰るか」
 言って立ち上がりかけたトーヴァにウェイが問うような視線を向ける。
「その男なら、放っておけばいい。明日、いや、今日は非番なのだろう?」
 ウェイは酔い潰れた男を連れ帰ってやるほどの親切心を持ち合わせていなかった。
 勘定は前払いなので、そのまま店を出る。日中はまだまだ暑かったが、夜気には秋の気配が潜んでいた。月の位置から見てだいぶ夜も更けている。
「道は分かろうな?」
 念のために、トーヴァは確認した。なにしろ、王都へ来て二ヶ月足らずであればこのような裏通りまで知り尽くしているはずがないのだ。わずかにウェイは頷いた。トーヴァは知らないが、ウェイは極めて優れた記憶力を持っており、一度通った道を忘れることはないのだ。
「では、私はこちらより帰るからな。また機会があれば、共に飲もう」
 ためらいなくトーヴァは暗い道を歩き出した。少しの間、ウェイが立ち止まって、その背を見送っていたことには気付かなかった。
 久しぶりに白狸に挨拶にいくか。
 白狸、もとい、神官長に会って、あの近衛騎士の人なりをどう思ったか聞いてみようと考えながら、女神官は自身の預かる小神殿へと帰って行った。

 翌朝遅くに、痛む頭を抱えて町中を歩いていた近衛騎士の青年は実に爽やかな顔で通りを歩く女神官を見かけて、思わず魔よけのしるしを切ったという。
 トーヴァはこの日も夜明け前には起きて一日の活動を開始していた。優れた体力を誇る騎士能力者とはいえ並のことではない。彼女はその日も精力的に彼女の「務め」に励んだ。
 女神官の活力源は酒であり、その体の中には赤い血の代わりに酒が流れているにちがいないと一部の人々の間ではもっぱらの評判になっていた。

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